はじめに

[1]永遠のいのち

 キリスト教や聖書について筆者は全く無知な、その意味では平均的な日本人の一人として、長い年月を生きてきた。それが大きな恵みを頂いて、イエス・キリストを救い主として信じる者とされたのである。若い人とは異なり、人生観・世界観が確立した後に聖書の世界に飛び込んだので、まるで宇宙服を着て月面をフラフラと歩いているかの如き、竜巻に巻き込まれて空高く舞い上げられたかの如き、収拾不能な大混乱に陥ってしまった。

信仰に至るまでの証詞は、プロフィルに2分冊にして紹介しているのでご覧下さ 

 キリスト信仰を与えられた直後、大抵の人は右も左も解らなくても歓びの中に浸っている。ただ嬉しく、喜んでいる。筆者もそのようであった。大混乱の中にいた事実とは一見矛盾するようであるが、しかしキラキラと輝いていた。

[2]「聖書の人々について書きなさい」という召命

 このような不安定の中での喜びと混乱からひとまず立ち直り、つむっていた目を大きく見開いて聖書に親しむことになった。聖書は読む度に私たちに新しい側面を発見させ、読むほどに噛みしめるほどに味が出てくる不思議な書物である。主が私たちのために書かれた人類の歴史であるから、登場人物は名前が記されていなくても重要な人物なのだろう。まして、その名が記されている人々は、それが例え大悪人であろうとも、人類史として非常に重要なのだと思われる。これらの人々や出来事を主が敢えて記録に書き留められた理由は明確に解るわけではないが、歴史の様々な側面のうち、重要な出来事が書物として私たちに与えられたのである。そして人々について美しい側面だけではなく醜い面も、驚くほど赤裸々に書き記されているのである。王たち、預言者たち、祭司たち、新約聖書の使徒たち、働き人たち、律法学者たち、十字架から昇天に至るまでイエス様に付き従った女性たち、その他多くの人々の人間としての表も裏も書き留められているのである。

 それが大切な働きをした人であってもなくても、あるいは大失敗を演じた人であっても、それぞれが魅力溢れる人々であり、人々への主の慈愛をあちこちに感じさせられる素晴らしいドラマがそこに展開しているのである。

このような中で、もう四半世紀近い昔、愛すべき聖書の人々について書きたいと思うようになった。この思いは日を追うにつれて強くなり、これは主に与えられたものであると思うようになった。それは、主の創造を伝えなさいと召し出されたのと殆ど時を同じくしていたような気がするが、創造宣教への召しの方が少し後であったかも知れない。

ただ、この夢だけは、恥ずかしくて今の今に至るまで誰にも語れなかった! 今、すでに20年以上温めているのであるから、漠然(ばくぜん)とした思いだけではなく頭の中では相当具体化していたのは事実であるが、一字も書いてはいないのに誰かに語れるわけがない。そもそも聖書を読み始めたのは、生き生きと頭脳が働いている年齢をとうの昔に過ぎ去ってからであり、それ以後も聖書について正規の勉強をしたこともなく、しっかり学んではいないという自覚のある人間の拭いがたい劣等感、自信のなさなのである。思いは募っても文字として表現できないかも知れない、ただの夢かも知れない等と、どんどん自分を逃れられない洞穴の中に貶(おとし)める思いに閉ざされ、ズタズタになりながら、それでも思いは募るばかりで時間だけが経ってしまった。

神学校で勉強したわけでもない、牧者としての訓練を受けたわけではない、しかも若くない頭脳は、読んでも、読んでもすぐ忘れてしまうという念の入れようである。もっとも「読んでも、読んでも」と大きな顔をして言えるほど、聖書に親しむ時間はなかった。聖書知識が貧弱という表現さえおこがましい、まるきり知らないのである。そんな人間がどうしてこんな思いを抱くのであろうかと、全く戸惑うばかりであったが、聖書に登場する人物に親近感を覚えたこと、そして元々文章を書くのが子ども時代から大好きであったことも相俟(あいま)って、どんどん夢が膨(ふく)らんだ。

キリスト者として落ち着き始め、キリスト教の世界、聖書の世界を見渡した時に、足許で地滑りが起こっているような不安定感、もどかしさに襲われた。先人の大きな業績も聖書のことも信仰のことも、まだ何もよく解らないまるきりの幼児ではあったが、それでも、すくい取った砂が指の間からサラサラとこぼれ落ちるような感触は気持ちが悪かった。この不安定とじっくりと向き合ってみて分かったことの一つの要因は、聖書解釈がまるきり男性の視点で捉えられているということだったのである。書きたいという熱意を生み出し、支え続けた最も大きな理由は、聖書に書かれている出来事や人々を、女性の視点・感性で眺め直してみたいという思いであったようである。

[3]女性の科学者としての視点・感性

聖書に書かれている人類史上重要な人物は、私たちの人生に様々な教訓を与え、どのように適用すべきかを教え、促してくれている人々である。彼らがどのように生きたか、何をどう感じていただろうかという理解を、女性の目で見つめて描いてみようと思う。

聖書の時代を生きた人々は、今よりももっと男性優位の時代を生きていた。一夫一婦を主が定められたにも関わらず、それを破った人々、遊女がここかしこに出て来て、初めて聖書を読む人に戸惑いを与えるような時代で、主が遊女を是となさったのかと錯覚さえしてしまいそうである。弱い立場の女性の中でも一番弱く虐げられていた遊女たち、奴隷たちの姿を女性の視点で捉えたときに、どのような景色が見えるかを、描き出したいと思う。

筆者は人生の大半を科学者として生きてきたので、それが何であっても考える前に科学者の視点に立っており、論理的思考回路が自動的に働いている。そして、科学者はデーター、事実を大切に取り扱い、データーを改ざんしたり、歪曲したり、捨てたりということをしない。データーを自分の好みに任せて歪んだ理解をしたりしないで、真正面からデーターと向き合うのである。

したがって、聖書を読むにあたっても、聖書が創造主の著書であると知ったとき、聖書と真正面から真摯(しんし)に向き合い、掛け値無しにそのまま読むのが科学者である。但し、全く誤りがないのは創造主がお書きになった原典のみであり、それ以外の翻訳はどこまでも翻訳であるという現実とも向き合わなければならないのである。聖霊に導かれて翻訳されているから翻訳聖書も無過誤であり、一字一句そのまま受け取らなければならないと主張する方々もいるかもしれないが、数多くの異なった翻訳書があるという事実は、翻訳は無過誤ではないということを示している。もしも翻訳聖書も無過誤であるならば、言語毎に翻訳聖書はただ一つで良いはずである。ところが、英語に至っては非常に多数の翻訳があるし、日本語も10種類くらい存在している(文語訳、口語訳、新改訳、共同訳、新共同訳、現代訳、リビングバイブル、創造主訳、現改訳(2015年発刊予定)、フランシスコ会訳など)。科学者であるからこそ、このような数多くの翻訳聖書を読み比べることによって、微力ではあっても理解を少しでも原典に近づけたい、主の御旨を尋ね求めたいと思うのである。

科学者であるということをことさら意識して聖書の人物を描く積もりはないが、意識するまでもなく女性であるという事実と、そして無意識下に科学者である視点、感性、体臭、論理的思考回路は働き続け、その土台のもとに聖書の愛すべき人々を観察しているので、それを率直に描いてみたいと思っている。