[1]アダムの創造の経緯
創造の経緯は、創世記1章に次のように記載されている。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1章27節)
すなわち、神はご自身の御姿(みすがた)をそのまま映されて、「男」と「女」を創造なさったのである。神ご自身の御姿とは、肉体の姿と同時にその内容も人は頂いたということであり、神の御姿を頂いたという点において「男」も「女」も同じである。そして、地球も動物も含めて、創造の御業(みわざ)が完成したときに、神は満足して、「極めてよかった」と仰せになったのである。
神のかたちと言われても、人である私たちには漠然とし過ぎていてよく分からない。しかし、その神のかたちが人々の前に具体的に現れて下さった。ヨハネの福音書にそのことが書かれている。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書1章1節 & 3節)
ことばは神であり、すべてのものを造られた創造主である。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。(ヨハネ1章14節)
人となって私たちの間に住まわれたのは、イエス・キリストである。人々は「完璧(かんぺき)な人」とはどのような方であるかを、目の前で具体的に見せて頂いたのである。そのお姿に接し、声を聴き、ご人格に触れ、麗(うるわ)しいお振舞いを見た。この全部が「完璧な人」の姿であったのである。当時の人々はもちろんそんなこととはつゆ知らず接触していたのであるが、聖書は明確にキリストが完璧な人を指し示していることを語っている。そして、後世のクリスチャンもそのように理解することができる恵みと祝福に預かっている。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1章18節)
ただ不思議なことに、イエス・キリストのご人格が人・アダムのモデルであることを受けとめながら、肉体の部分に関しては逆の発想法に立つ人が多いことに驚かされる。神の姿に似せて造られたアダムは、キリストのお姿に似せて造られたのであり、肉体もまたイエス・キリストの肉体を模して造られたのである。人の姿をとってこの世においでになったと、すなわち人・アダムの肉体に似せた姿でキリストがお生まれになったと、完全に逆さまに考えて誤解している人が多いのである。しかし、聖書には「御子は、見えない神のかたち」(コロサイ1:15)と書かれており、又ローマ書でも次のように明言している。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8章29節)
[2]土地のちりからアダムは造られた
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2章7節、新共同訳)
陶器師である主が一塊の粘土を取ってこねて人のかたちに整えた後、息を吹き込んでいのちを与え、アダムは生きたものになった(イザヤ書64:8)。アダムはいきなり成人の男として創造されたのである。それが具体的にどのようであったかという詳細については、聖書は何も語っていない。だが、ほとんど一瞬にして土くれが人のかたちに造られて、そしていのちの息を吹き込まれて、成熟した男性がこの地上に現れたのである。
精妙に出来上がった骨格を包む温かい血が通う筋肉、心臓や肺臓など重要な諸臓器、この見事な人体が、土を材料として出来るはずがないと、四方八方から責め立てられて弱々しいクリスチャンたちは聖書に疑いを差し挟(はさ)むことになった。このような疑い深い性質は驚くべき勢いで地下に根を張り、人々の信仰心を蝕(むしば)む結果を生み出すことになった。この疑問を抱く人々に答えるために、科学的な検証を紹介する。
土地を構成する諸元素を表にまとめて示した。炭素、水素、酸素、窒素という多量に存在する元素は、一般の人々にも馴染みの深い元素だろう。又、園芸や農業に興味を持つ人にはリンは知っている元素の中に入るだろうし、健康に関する情報から、カルシウムや鉄についてもよく耳にする元素だろう。そして、その他人体を構成している様々な元素が土の中に含まれているのである。これらは全てが無機質な元素で、人の体を構成している物質や生命体と何の関わりも無い、人の肉体を造れるものではないように見えるかも知れない。
人の体が、どのようなもので構成されているのかを、少し詳細に見てみよう。生物体は、その種類によって比率は異なっているが、いずれも主要な構成成分は水である。すなわち、生命反応は水の中で行われているのであり、言うなら生物は水の中に生きているのである。人体は体重の60%から70%が水である。人の全体重を今仮に60キログラムとし、体重の65%が水とすると、39キログラムは水である・・・ちなみに水は水素と酸素という二種類の元素で構成されている。人の体から水を全て除いてカラカラに乾燥してしまった後に残る水以外の固形成分の量は体重の35%、21キログラムになる。それがどのような元素から出来ているかを分析した結果を表にして示す。
体を構成している主要元素は炭素、酸素、水素、窒素であり、これら4つの元素が約90%を占めている。次いで、体内で重要な機能を持っていることが知られている微量元素、さらには超微量元素が残りの10%近くを占めており、これらを総計すると99.4%以上に及ぶ。これら表に上げた元素と、先に示した土の成分とを比較すると、人の体がまさしく土の成分から造られていることが一目瞭然(いちもくりょうぜん)である。土の構成成分から、人を構成するのに適切な量比で取られて、必要な化合物に造って「土の器」すなわち人としての肉体をお造りになったのだということが納得できる。
【主】よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(イザヤ書64章8節)
ある意味で余談に思われるかも知れないが、ここで微量、超微量元素の存在について付け加えておこう。微量元素はそれでも全部で2キログラムを越えるが、超微量元素はここに上げた七つの元素全部合わせても8グラム以下、小さじ1杯強である。くっついて偶然紛れ込んできたと、ふと思いたくなるかも知れないが、実は微量成分・超微量成分は、環境に存在する濃度とは無関係にそれぞれが適切な量比で生物体内に濃縮され、創造されていることを知るとその御業の奇跡に感嘆せざるを得ない。
超微量成分であっても必須である元素は数多く知られており、例えば鉄は、血液、すなわち呼吸に必須であるが超微量元素であることに驚く人は少なくないだろう。鉄が欠乏すると貧血、呼吸困難に陥り、そして命にかかわる元素であることはよく知られている。これら微量元素、超微量元素は適切な量は必須であるが、多すぎると毒になる。セレンなどは毒物であるが、それでも超微量は必須であり、又骨を形成し、様々な生理反応、酵素反応に関わる重要なカルシウムも、多すぎると体に害を与える。
超微量元素でさえ生命が維持されるためには必須であることを知れば、偶然紛れ込んできたという妄想に近い思いを仮にこれまで持っていたとしても、それは吹っ飛んでしまったことだろう。創造主のなさることは、一点の欠けもなく余分なこともなく全て完璧なのであり、必須であるから必要な量だけ取って、人を造り上げられたのである。これらについては、講演や記事で詳細に述べている。*1
[3]いのちを頂いたアダム
アダムを絵にして表現すると、アメリカ人の描くアダムと日本人の描くアダムは大きく異なる。また、同じ民族でも年齢によって、好みによって個性が表れるだろう。この絵を描いたイラストレーターも当初はやや弱々しい、可愛い坊やを描いていた。アダムが創造主に叱られて木の間に隠れたので弱々しいイメージを持ったのかも知れないし、この情景は弱々しい人物として語られることが多いかも知れない。しかし、超人的な能力を賦与(ふよ)された人類の始祖として創造されたアダムが、ひ弱い少年であったはずはなく、むしろ知識と知恵と思慮に富み、生命力に溢(あふ)れた逞(たくま)しい若者であったはずである。それを表現してもらいたいと、難しい注文を出して、このようなアダム像が生まれ出てきた。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(第二コリント4章7節)
エデンの園でいのちを頂いたアダムが最初に見たものは、無限に広がっている青い空、澄んだ空気を通して光が輝いている世界、そして緑の葉をいっぱい付けた木々、美しい花が咲き誇り、また豊かに実がなっている樹木、そして様々な動物たちである。
土の塵から創造され、いのちの息を吹き入れられた直後のアダムはどんな風だったのだろうか?土の器に入れられているアダムの本質は、その能力において今の私たちがどれだけ背伸びをしても到達し得ない才能を与えられていた。彼が、自分の肉を形作った土をどのように理解していたのか、また内に秘められている宝をどのように受けとめていたのか、それは全く分からない。
気が付いたら、そこにいたのである。さわやかな命の目覚めはどのように快適な一瞬だったのだろう?或いは創造主が何か語りかけられたのであろうか?私たちが快い眠りから目覚めたときと多少は似通っているかも知れない。しかし、私たちは、目が覚めた途端に眠る前の自分に立ち帰り人生の続きが始まるのであるが、アダムは「まっさら」である。過去への繋(つな)がりは何も無い。一体どのようにして自分のいのちを、存在を受けとめたのだろう?完璧な人として創造されたのではあるけれど、造られたときに成人として、力の漲(みなぎ)っている若者として地上におかれた訳であるから、実質的には過去が無い。
神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。(創世記2章9節)
アダムの真ん前には、創造主である神がおられた。そのお姿をアダムはどのように拝したのだろう?分からない。どのような知識を与えられていたのであろうか?神とアダムとの間には意思の疎通(そつう)が完全に可能であったのだから、創造された時に、言語その他を含む莫大(ばくだい)な知識、知恵、創造性、思索力、洞察力、その他諸々抜群の能力を初めから備えられていたとしか考えられない。霊魂体が完全な姿で、すなわち神の御姿を映されたアダムであったのである。
神の御姿を拝して、造られたいのちをどのように理解し、どのように喜んだのだろう?後で、エバを迎えたときのアダムの喜びようを見ると、自分のいのちをも又喜んだであろうと推察できる。
[4]創造主である神の命令
創造が全て完了して、「極めてよかった!」(創世記1章31節)と満足された神は、ご自身の御姿を映してお造りになった最高の作品であるアダムに、眼を細めて優しく慈愛深く微笑みかけておられたことだろう。ところが、聖書の記述はいきなり次のようであって、これを読む私たちは、残念ながら「取って食べてはならない」という「禁止」を強く受けとめ、そして「死ぬ」という言葉だけを強烈に感じてしまう。こうして、怖いとか、厳しいとかという神様の御性質の特別な一面だけを強烈に受け取ってしまうようである。・・・余談であるが、無視できないほどの数のクリスチャンが「旧約の神様は怖い神様」「新約のイエス様は優しい神様」という、訳の分からない錯覚に囚われているのと相通じるものがある。
神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章16節 & 17節)
不思議なことに「園のどの木からでも思いのままに食べてよい。」と言われた部分を聞き逃してしまうのである。自分は何の苦労もしないのに豊かな作物が実っており、「どの木からでも欲しいだけ食べてよい」恵みと祝福を存分に与えられたのである。何と幸せなことだろう。また、アダムと神との関係もギスギスした愛のかけらも感じられない受け止め方がかなり蔓延しているような気がするのである。
このご命令は確かに厳粛(げんしゅく)な命令である。創造主の命令を真剣に受けとめて、与えられた責任を主の命令通りに行う従順、真摯(しんし)さが要求されていたのである。これをアダムが全身全霊で真剣に受け取っていたら、そして、自分のあばら骨から造られたエバに、そのまま間違いなく、そして真剣に伝えていたならば、地球史も人類史も変わっていたかも知れない?
[4]アダムに与えられた能力と名誉ある任務
神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。(創世記2章19節)
厳しくも重要な命令を下された後、主はお造りになった全ての野の獣、すべての空の鳥を連れてきて、それらに名前を付けるという最初の名誉ある任務をアダムに与えられた。そして、アダムは、これらの生き物たちの特性を瞬時に学び取り、それぞれに名前を付けた。アダムが付ける名前は、主の御眼鏡にかなう適切な名前だったのでそのまま採用されて、それらの名前となった。しかもこれらの作業を非常に短い時間の間に成し遂(と)げたのであるから、アダムは驚くべき才能を与えられていたのである。
何故、アダムにこの任務を与えられたのかは、この任務を与える記述の前に目的が書かれており、また作業の後でアダムが学んだことが記されているので分かる。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1章28節、口語訳)
神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章15節、18節)
地を治め、地上に創造された動物たちを全て正しく治め、管理・監督するという重要で名誉ある任務が人には与えられたのである。従ってその任務を遂行させるためにも、それらを学ばせる必要もあったのであろう。
又、さらに重要なことは人が一人でいるのは良くない。アダムには助け手(companion、相棒、仲間)が必要であることを、アダム自身が学び取るように、主は導かれたのである。そして、地上のあらゆる動物たちの中には、外見的な姿・かたちにおいて、アダムに似た生き物は全くいなかった。また、内面的本質においても、すべての動物がアダムとは全く異質であり仲間にはなり得ない、真の交わり・精神的交流が成立する可能性がない、アダムの相棒は見つからないことを、アダム自身に悟らせるためにこの任務を与えられたのだと思われる。
内面の本質的なこと、知的かつ霊的な面に関して人だけが特別であり、アダムと仲間になり得ないことをアダムは学んだのである。
人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。(創世記2章20節)