2.木の実を食べただけ

(1)いつ主に叛逆したのか 

 豊かで美しい地上にいのちを与えられたアダムとエバは、完璧なものとして創られ、完全な自由を享受することが出来た。どれ位の年月、そのようないのちを楽しんでいたのだろうか?聖書には何も書かれていないので、私たちは誰も知らない。

 現在の私たちには理解を超えた純粋無垢な二人の姿が創世記2章の最後に描かれていて、それに続けて、3章の初めに、いきなり誘惑の魔手がエバに忍び寄ってきた話が書かれている。そのためだろうか。蛇の誘惑にまんまと引っかかって主の命令に背いたのは、祝福された7日目の直後、すなわち8日目、或いは遅くとも数日後であるという理解がかなり一般的であるようである。

 下に示した二つの図を見ながら、考えてみよう。一般的な解釈によると、創造後すぐに二人は主に叛逆し、その後いつ何が起こったか全く分からないが、ただセツが誕生するまでの百三十年近い年月の間に、カインとアベルが誕生し、成人し、カインのアベル殺しの事件が起こり、すぐにカインは追放された。これら一連の事件は、聖書歴九十年から百三十年の間のことだろうか。では、創られてから九十年位の長い年月、地上には親子四人・・・しかいなかったという理解が一般的である・・・は、どのように暮らしていたのだろう?図に示したように、何も分からない状況である。

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 一般的な解釈とは異なる筆者の見解を、図の下半分の部分に示した。聖書歴百三十年のセツの誕生から逆算する。アベルを失いカインが追放されたことを悲しむエバに、セツが与えられたのである。したがって、殺人・カイン放逐という大事件の後、時を経ずして主は代わりの子どもを与えられたことになる。エバは「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから」(創4:25)と信仰を語り、「セツ(代わり)」という名前を付けたことから、これはアベルがカインに殺され、カインが追放されてからそんなに年月の経っていない頃であることが分かる。 

 すなわち一連の悲劇が起こったのは、聖書歴百二十八、九年と考えても良いだろう。そして、この時には二人の兄弟は成人していたので、二人は少なくともこの三~五十年前には生まれていたと考えても良いだろう。すなわち、聖書歴八十~百年頃であろう(この事件については、「1-3 カインとアベル」について詳細に検討する)。カインとアベルの誕生は、創世記四章の初めに記されているが、これはアダムとエバがエデンの園を追われた、すなわち主に叛逆してからそんなに歳月の経っていない頃のことである。そうすると、アダムとエバの創造からこの事件までには短く見積もっても七十~九十年の歳月が経過したと考えられるだろう。すなわち、二人はこの期間、自由で幸せな日々を満喫したと考えても、聖書的に矛盾は見当たらない。

木の実を食べて主に叛逆したのは、聖書歴七十年以降であると思われる。

 

(2)木の実を食べた

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前項に書いたように、狡猾(こうかつ)な蛇にとって無垢(むく)なエバを(だま)すのは「赤子の手をひねる」より容易(たやす)いことであった。

 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3章6節)

 二人は、食べてはならないと厳しく言われていたにもかかわらず、「善悪の知識の木」の実を食べてしまった。(創世記3章6節)

  知識の木の実を食べてはならないと厳しく言われていたと上に記載したが、この聖書箇所(創世記2章17節)について、いくつかの翻訳を比較検討して、内容を詳細に味わってみたいと思う。一般には馴染みのない文語訳及び二つの英語訳も参考のために上げたが、読みたくない方はそれを無視しても構わない。。この木の実は非常に美味しかったのだろう、先に食べたエバが夫

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にも与えたのであるから。二人はこの木の実を、ためらいもなく食べたのだろうか?あるいは偉大な方の命令に背いているのだと、後ろめたい気持ちがありながら、誘惑に負けてしまったのだろうか?悪いことをしているという自覚症状があったなら、もしかしたら、砂を噛むような心地だったかも知れない。だが、聖書は、起こったことを淡々と述べているだけで、この時点での二人の心情については語ってはいない。

 新改訳 善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。

新共同訳 善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。

口語訳 取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう

文語訳 汝その実を食らふべからず 汝之を食らふ日には必ず死ぬべければなり 

NKJV you shall not eat, for in the day that you eat of it you shall surely die.

NIV you must not eat ......, for when you eat of it you will surely die.

 「食べてはならない」という表現は、翻訳によって多少強さの差はあるが、「禁止している」という事実には変わりはない。しかし、「死ぬということの強さ」と「いつ死ぬのか」という表現には、かなり大きな差がある。

 新改訳では「食べるとき」「必ず死ぬ」とあり、死ぬことに関しては非常に強い絶対的な表現であるが、いつ死ぬのかという「とき」は、「すぐに」という解釈が常識的ではあるが、「とき」が平仮名で表現してあるので、多少時間的な曖昧さをもたらしたようで、すぐではないという理解をする人々の方が多いようである。

新共同訳は、「食べると」と「必ず死んでしまう」と、死ぬということに関しては厳密であるが、いつ死ぬのかということについては、曖昧な翻訳、むしろ仮定形になっている。口語訳は、「食べると」と「きっと死ぬであろう」と、「あろう」という表現で「死ぬ」ことに関して弱い表現である。又、いつ死ぬかということに関しても新共同訳同様、仮定形になっている。

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文語訳は、「食らふべからず」と厳しく禁じている。「必ず死ぬ」という表現も強い。そして、「食らふ日」と時間について限定しているようにも読み取れるが、この「日」という言葉は広い意味を持ち得るので、この表現では多少は明確さを欠いている。

 英語訳のNKJVでは、食べてはならないという禁止の表現と、必ず死ぬという表現も厳格に表現されている。また、死ぬ時に関しては「食べたその日」と限定されていると読み取っても良いように思う。

NIVでは、食べてはならないという禁止の表現は明確であるが、死ぬという表現は多少弱く、また時も限定されていないので、全体的に弱い表現になっている。

四つの日本語訳、二つの英語訳から、アダムが主に命令された言葉を噛み分け、そして彼がどのように受け取り、エバにどのように伝えたかを、私たちは推測するしかないが、「食べてはならない」という命令だけは明確に受けとめたはずであると理解しても良いだろう。これが重要な第一点である。

 さて、次に、主が何故このことだけを禁じられたのか、という点である。この一点に関して以外は、彼らに無限の自由を与えられたのである。何故、これだけを禁じられたのだろうかと、彼らは思い巡らしただろうか。あるいは、子どもの如く無邪気な二人は、何とも思わずにそのまま受けとめたのかも知れない。そして、そういう彼らを惑わす悪い奴が現れたのである。蛇は主が何故禁じられたのかという理由までひねり出して、無垢な二人をペテンに掛けた、その手練手管を前項[1]蛇の誘惑・陰謀に詳述したので、思い起こしてください。

 でも、主は何故「善悪の知識の木の実」を食べてはいけないと禁じられたのだろうか?何故、いけないのだろう?知識を得ることは、聖書も奨励しているではないか。蛇が嘘を言って欺こうとしたことは受け容れがたいことだとしても、蛇の言い分にもなるほどと思わせる側面があるかも知れない。目が開け、善悪を知るようになるのは良いことだと、ふと人間は思ってしまうのである。この点については、順次考察する。

 

(3)「死ぬ」:霊的死・主との断絶

  kinomiwo_tabetadake_04.jpegこの「死ぬ」に関しては、多分長い間聖書解釈が食い違っていたと考えられる。いや、今もなお必ずしも解釈は一様ではない。なぜなら、禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまったにもかかわらず、二人は死ななかった、生きていたからである。それで、[死ぬ]は肉体の死ではなく霊的な死であるという説が主流を占めて長い年月が経過した。

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創3:7-10)

 木の実を食べると、蛇が言ったとおりになった。目が開かれ自分たちが裸であることに気が付いた。お互いの真実の姿を見ることが出来ない、恥ずかしいと思うようになったのである。主が最初に食べてはならないと命じられた時、アダムがその命令をどれ位真剣に聞いたか、命令に背いたら罰として死ななければならないと言われたことを、アダムがどのように理解したのかは分からない。見たことも聞いたこともない「死」を一体理解したのだろうか?ともあれ、目が開いた結果、「恥」を知り,自分たちがしでかしたことの罪の大きさに気が付いたから、主から隠れたのであろう。

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また、彼らは腰をおおうものをイチジクの葉で作った。彼らは裸であることを、何故それまで知らなかったのか?彼らは盲目だったのか?そんなはずはない!では、何故裸であることが見えなかったのだ!ある人々は、シャカイナグローリーの光で包まれていたので、互いの裸は見えなかったのだと解釈をする。とすると、実質、裸ではなかったと同等と考えても良い。すなわち、相手の裸、真実の姿を見ることが出来ないという、現在の罪深い私たちと同じ次元に引きずり下ろしてしまうことになる。主が与えてくださった体は、それがシャカイナグローリーの光であれ、イチジクの葉であれ、衣服であれ、何かで隠さなければならないようなものであったということになるのだろうか。

 現在、人はアダムから受け継がれている原罪を背負って生まれて来るのであるが、それでも生まれたての赤ちゃんは裸を恥ずかしいなどとはよもや思わない。ましてアダムとエバは純粋無垢であったので、互いの姿を、肉体も含めてその存在全てをそのまま受け容れることが出来たのである。また、創造主の御前で何かを隠せるわけがないことは、二人は十分承知していたはずである。創造されてからこの大事件の起こるまで、主の命令を軽く聞

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き流し、命令の重要さ、重さをやはりしっかりとは受けとめていなかったのだろうか。叛逆してしまってから、命令の意味を悟り、罪の大きさを認識し、おののいて、パニック状態になったのかも知れない。

主は「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけられた。主から隠れることなど出来ないことは重々承知していたのに、その声を聞いて「主の御顔を避けて」園の木の間に隠れた。最高の作品として創造していただいた自分を恥ずかしいと思い隠れなければならなくなった心情はどういうものだったのだろう。そして、主が呼びかけてくださったにもかかわらず、御顔を避け、恐れて隠れてしまったのである。それは、取りも直さず、主との断絶、霊的死であった。

 二人が何をしでかし、どのような霊的、精神的状態にいるか、そしてどこに隠れているか、もちろん主は十分ご承知の上で「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけられたのである。「あなたは、どこにいるのか。私から遠く離れてしまったのか。私を恐れているのか。」創造主の悲しい呼びかけであったのである。

 人類が認識している「死」は、どこまでも肉体の死であるにもかかわらず、この木の実を食べても、アダムもエバも死ななかった!死ぬどころか、アダムは実に九百三十年生きたのであり、エバもその後多くの子供たちを生んで育てた記載があるので、アダム同様長生きしたことは明らかである。ただ、完全に不老不死ではなく、長寿だったかも知れないが、結局死んでしまっているので、あの木の実はある種の毒を持っていたのではないか。それが体内に入って、毒が徐々に働いたのであるという珍説まで現れたが、もちろんそんなことはあり得ない。

 つまり二人は死ななかったので、「食べると死ぬ」の「死」は「肉体の死」ではなく「霊的死」であるという解釈がされてしまい、その解釈が今に至るまで延々とかなり有力な説として引き継がれている。もとより、霊的死をも意味したことは明らかであり、それを否定する人はそんなに多くはいないだろう。聖書の記述を文字通り辿っても、そのことは如実に書かれており、慕わしい主を恐れ、御顔を避けて隠れたのである。この事件で人間は神から引き裂かれ、霊的に死んだと明確に書かれているので、霊的死であることには疑問の余地は無い。

 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。(ロマ 5:14)

 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(Ⅰコリント 15:22)

 ただ、それだけではないと思われるのである(創 3:22、後述)。

 

(4)「死ぬ」:魂の死・互いの断絶

 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」(創3:11)

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アダムとエバは主にこのように問いかけられて、何をどのように考えただろう?一体、誰が教えたのだろう?蛇だろうか?一体どうしてこれを恥ずかしい、隠さなければならないと思い始めたのであろうか?主の前に出ることが出来ないと、何故思うのだろうか?主は、食べてはならないと何故言われたのであろうか?彼はこのようなことを心の中で思い巡らしたことだろう。だから、主に叱責されたときに、次のようなとんでもない答えをしてしまったのである。

 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創3:12) 

 アダムのこの変貌ぶりはどうだろう!私たちの尊敬するべき先祖アダムの、見たくも聞きたくもないおぞましい姿である。かつてエバが主に連れて来られたときに、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と、小躍りして喜び出迎えたアダムが、「この女が悪いのです!」と口答えをして、挙げ句の果てに「大体、あなたがこんな女を私の所に連れて来られたのがいけないのですよ!」と、「私は悪くない!エバが悪い、主が悪い」と余りにも見苦しい責任転嫁の言い逃れをしたのである。

  アダムとエバはかけがえのない仲間、心を寄せ合った相棒であったはずである。エバはアダムの複製ではなく、互いに独立した存在であり、真正面から向き合い、補い合う完全な人格的調和の中で一つになる大切なお互いであったのである。それが、この一大事に際し、アダムはものの見事にエバを裏切り、そしてまたしても主に叛逆したのである。こうして互いの間にも断絶、魂の死が生じたのである。

 

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(5)「死ぬ」: 肉体の死

   神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創 3:22)

 主は、二人に動物の毛皮の服を作って与えられた後、「いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」と仰せになって、二人をエデンの園から追い出されたのであるが(創 3:24)、この「永遠に生きないように」とは、肉体の死を意味していたと考えられる。「木の実を食べたら死ぬ」の「死」を「霊的な死」だけだと解釈され続けたことの意味が分からないが、この記述は霊的な死を意味しているとは考えにくい。

 さて、ともあれ、主はアダムに「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せになった。先にも書いたように、私たちは、常識的には「死」とは「肉体の死」を考える。アダムとエバは、「必ず死ぬ」と言われて、一体どのように理解したのだろう?

  創造された世界は、完璧な世界であった。当然どのような死もそれまで全く起こったことはなかった。その時に、主が「死」の意味を教えられたかも知れないし、創造されたときに、私たちの理解を超えた知恵と知識を主が与えられたことは聖書の記述から確かであり、その知識の中に「死」に関する知識も脳裡に刷り込まれていたのかも知れない。それなら知的にも理解出来たかも知れない。それでもなお、それまでどのような小さな動物の死も見たことはなかったのであるから、体験的には未知の世界であった。しかし、この直後に動物の死を体験的に知ることになってしまうのは、すぐ後で記載するが((7)血による贖い)、主は二人のために皮の衣を作って下さったが、皮の衣は当然、動物が殺されて作られたということである。

 

 さて、木の実を食べたその時に、二人が死ななかったために、肉体の死を意味しないという解釈が延々と続いた。しかし、現在の生物学は、二人が木の実を食べたその時に、裸であると知ったその時に、肉体的にも(DNAに)死が入ったと考えられることを学んだ。ここで生物学の話を始めると、大きく本題を逸れてしまうので、この結論だけを記すに留める。

参照:「必ず死ぬ」の生物学:テロメア・テロメラーゼ 聖書と科学カンファレンス(2015.8.19)

 

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(6)木の実を食べただけ

 どんな木の実であったのか不明であるが、二人は蛇の誘惑にまんまと陥ってしまって、善悪の知識の木の実を食べてしまった。主の命令に背いた結果、二人は創られてから初めて、様々な惨めな経験をすることになった。あんなに慕わしかった主を恐ろしいと思い、隠れてしまった。何故か分からないが、自分たちの現実を恥ずかしいと思った。厳しい叱責を受けてしまった。そして、互いに不信感に閉ざされ、うとんじる思いが湧いてきた。これらの初めての体験を「死」として理解したかどうかは分からないが、少なくとも創造主に叛逆した結果であるということは理解して、厳しく辛く受けとめたことだろう。

 アダムがエバを責めたので、主はエバをお叱りになった。エバは自分を惑わした蛇が悪いのだと訴えたので、主は蛇に、一生、腹ばいで歩くという非常に厳しい処罰を与えられた。そして、

 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫(your seed)と女の子孫(her Seed)との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかと(His heel)にかみつく。」(創3:15)

  「蛇の子孫と女の子孫との間に敵意を置く」と言われたが、この箇所を語るときに、日本語では区別されていないが、英語を書き加えたように多くの人は子孫という言葉は実は両方とも単数であると説明する。すなわち女の子孫はイエス・キリストご自身を指しているのであり、このNKJVではher Seedと頭文字は大文字で書いて、キリストであることを明確に表現している。サタンはキリストのかかと(His heel)に噛みつくが、キリストはサタンの頭を踏み砕いてしまうと、最後に起こることが預言されているのである。

 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。(創3:17、18)

 「土地が呪われてしまった」のである。すなわち、地球全体、その上に存在する植物もそしてそこに生きる生き物も全て呪われてしまったのである。木の実を食べたために処罰されたのは、アダムとエバと蛇だけではない。主が創造されたもの全てが呪われたのである。そして、この大事件の後に地に生える草木も生まれてくる新しい生き物も全て、この呪いを背負ってこの地上に現れるのである。この内容をしっかり噛みしめて受けとめなければならない。分かっているはずであるのに、この事件の前に生まれていた動物やあるいはアダムとエバの子供たちは罰の対象ではなかったみたいな錯覚をしている

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人々がかなりいるようである。そのために、カインが長子であったという不思議な「常識」が生じてしまったようである。この件に関しては、「1-3 カインとアベル」の項で考察する。

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創3:19)

 それまで豊かに作物を与えていた土地にはいばらが生い茂り、見るも無惨に痩せた土地になって作物を実らせなくなる。厳しい労働を強いられて働くことが苦しみになり、「辛い」労苦を耐え忍んで日々の糧を得なければならなくなる。そして、地上の命が尽きたとき、土に還る定めになった。

 自分たちは死ぬことになり・・・死の意味がどのようなものであるにしても・・・、地球全体が呪われ、そこに生える草木が呪われ、地上に生を受けたいのちが全て呪われた。そして、その呪いは未来にまで及ぶものである。彼らが一体どんな大きな罪を犯したからというので、このような信じられない厳罰を主は下されなければならなかったのだろうか?彼らがしたことは、「善悪の知識の木の実を食べただけ」である。

 「善悪の知識の木」の実を食べただけ? 創世記3章は、人類の肩にずっしりと重みを以て迫ってくる記述である。「ああ、そうなんだ。処罰されたんだ。悪いことをしでかしたから、仕方ないでしょ。」くらいに流し読みして、人類がひっくり返り、地球全体がひっくり返ったことを見逃してしまう人がいるとしたら、すでによほど創造主と親密な関係を戴いている幸せな人か、意味を考えずに読む人か、自分の罪の深さが全く分かっていない人か。だが、・・・この事件によって、人類史がひっくり返り、地球がひっくり返った大事件であったのである。

 二人が「善悪の知識の木」の実を食べただけで、創造されたすべてのものを、地球を、地上にあるもの全てを主は破壊してしまわれたのである。しかも、あろうことか、ご自身の御姿を映して、愛を込めて人を創造なさったにもかかわらず、その愛の対象である人に「死刑宣告」をされたのである。創造主は無慈悲にも、なんの苦もなくこの処罰を下されたのだろうか。創造主は人をも含めて全てを破壊し尽くして創造の前の「無」に戻して、創造の御業全てを一からやり直そうとすればお出来になれた御方である。だが、そうはなさらなかった。

 「木の実を食べた」ことは、全宇宙のみならず、人に死刑宣告をしなければならないほどの罪であったのか?「木の実を食べた」ということの罪は何だったのか?アダムの罪の本質はどういうことだったのか?「木の実を食べた」ことが、これだけの処罰をされなければならなかった凄まじい罪であったのだろうかと思慮深く思い巡らすなら、「腹の底から」納得できるだろう。この処罰を敢えてしなければならなかった主のお苦しみ、お悲しみに思いをいたすことは人には不可能なことであるかも知れないが、それでも創造主である御方への叛逆とはこういうことであったのだと理解することはできるだろう。

 決して、木の実を食べた「だけ」ではないことを思い知ることが出来るだろう。それはただの木ではなく、「善悪の知識の木」であったのであり、「善悪の知識」「善悪の判断」は創造主に帰属することであり、被造物である人には触れてはならない領域であり、到達しようとしても到達できないことなのである。事実、アダムとエバは「善悪の知識」を得ることの素晴らしさに誘惑されて食べてしまったが、善悪の知識を得ることはアダムとエバには出来なかったし、今に至っても人には出来ていないのである。

 

(7)血による贖い

 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創3:21)

 kinomiwo_tabetadake_11.jpeg 皮の衣とは、当然動物を殺害して調達された皮である。主は植物繊維で二人の衣をお作りになることも当然出来た訳である。しかし、皮の衣でなければならなかったのである。罪をあがなうためには、動物の血が流されなければならなかったのである。人の罪を償うには血を流さなければならないという主の掟であり、この出来事が原始福音と言われる所以であり、キリストの十字架を予兆しているのである。

  捕捉であるが、旧約聖書には罪の贖いのために数多くの動物が犠牲の供え物として殺される記述が随所に書かれている。それを読んで気持ちが悪いという人々も少なくない。だが、完全な草食主義者ならともかくとして、大多数の人々は、肉を食べているのである。自分の手で殺さないかも知れないが、それを職業とする人々の手により、動物が殺戮さつりくされ、血が流され、しかるべく処理をされているのである。自分の手でしないで他の人に委ねていても、同じ殺害行為を行っているのが人間である。

 キリスト信仰を持っている人の場合には、このこと以上の深い、重要な意義がある。自分の罪のためにイエス・キリストが如何に尊い血を流して下さったかを、じっくり噛みしめなければならない。罪のない神である御方が肉を裂き、血を流して下さったから、動物を犠牲にしなくても良いのである。キリストがおいでになる前の旧約の時代は、幾度も繰り返して動物の血を流さなければ自分たちの罪の贖いが出来なかったのである。

 キリストにより、私たちを、創造主の御前に正しい者とし、聖め、救いを完成して下さったのである。(Ⅰコリ 1:30, 創造主訳)