3.すべての人の母 エバ

[1]アダムにふさわしい助け手(相棒)の創造

 アダムは全ての生き物を観察し、それぞれに適切な名前を与えたが、自分にふさわしい助け手・仲間は見つからなかった。アダムは神のかたちに造られたので、自分に似た性質を持った仲間が必要だった。互いに心を通わせ合い、本質的な内面、知的かつ霊的な面においても真の交わり・精神的交流が必要なのである。

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 人にはふさわしい助け手が見あたらなかったので、主は「人がひとりでいるのは良くない」ことに気付かれて、ご自身の創造の失敗を修正するために、エバを造ることを思いつかれたのであろうか?そんなことはあり得ない。主が全知全能であることを、私たちは一瞬たりとも忘れてはならない。はじめに主が創造を企画なさった時に、創造の工程は全て定まっていたのであって、その企画通りに創造の御業は遂行され、工程の区切りごとに出来映えを点検し「よし、よし」と確認して、完成なさったのである。

 「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18節)

 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。(創世記2章21節)


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   "深い眠りをその人に下された"     "あばら骨をひとりの女に造り上げ"    "女を人のところに連れて来られた"

神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。(創世記2章22節)

 

[2]あばら骨からいのちの創造

 創造主は最初の人アダムを土から創造された。そして、アダムのあばら骨の1本を取って、アダムの相棒にするためにエバを創造なさった。まさしく二人は一心同体として創造されたのであるが、それはアダムのコピーではなく独立した別の人格として創造されたのである。土から血の通った人が出来るはずがないと異議を申し立てた人々は、エバの創造についても、様々に異議を申し立てた。

 ①生きた肉、血の通った人であるエバが、死んだ骨から出来るはずがない。②これはヘブル語の翻訳の間違いである。③アダムのあばら骨を1本取られたのなら、男の肋骨は女より1本少ないはず。したがって、エバはあばら骨から造られたのではない

  上記のように、様々な「科学的」異議が、かなり多くの人々によって大声で申し立てられてきている。しかし、このようなエセ科学は、しばらくは人々の目をくらませることは出来ただろうが、やがて科学的・生物学的に間違いであることが立証された。

bible_peoples_3_4-0007.jpg「骨は死んだものである」と、とんでもない誤解をしている人が想像以上に多い。理科室に置いてある石膏(せっこう)の人体模型を連想しているのであろう。人の肋骨は図のようになっていて、その1本を主がアダムから採取されたのである。このことを色々考えた昔の人々は、胸を切り開いて骨を1本切り取ったと想像したのだろう。大量の出血を伴う大手術であったのだろうか?

  この出発点からして、信仰者にとってはとても受け容れがたい出来事であったのだろう。折角完璧かんぺきに創造されたアダムの体を切り刻むなどとんでもないことであり、創造主がそんなむごいことをなさるはずがないと思ったとしても不思議はない。だが現在、医療技術は人の予想を遙かに超えて目覚ましく進歩してきて、小さな孔を幾つか空けて内視鏡を見ながら内臓の大手術を行うことが、人の医療技術によってさえ出来るようになった。創造主が傷跡きずあと一つ残さず肋骨1本引き抜かれたとしても不思議ではない。「あばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」(創世記2:21b)と書かれている。傷跡はふさがれて跡形もなくなり、肋骨は速やかに再生しただろう。次の[3]を参照のこと。

 

[3]骨は生きている

 さて、人の骨は死んでいるのか? 骨はリン酸カルシウムなどを主成分としており、ほとんど無機質のただの白い粉だから、こんなものから人が造れるはずがない、非科学的であると人々は考えた。そして、聖書に書かれていることは文字通りに信じてはならないと、ある人々は主張した。あるいは、アダムは肋骨を1本取られたので、「男は女より肋骨の数が1本少ない」という愚かな噂話がまことしやかに教会で語られたことがあったが、よもや今はそんな話はないだろうと願う。現状は肋骨の数は男女同数で、12対24本である。アダムが主から戴いた遺伝情報が子孫に受け継がれてきたのであり、男も女も、主が創造なさった肋骨の数と同数の肋骨を持っているのである。[4]の人核型の図を参照。

 あるいは、もし骨からエバが出来たのなら、土と骨とでは成分が異なっているので、アダムとエバとでは、体を構成する成分は異なっていたのか等々、様々に的外れな「科学的」異議が噴出した。あるいは又、骨から肉は出来ないので翻訳の間違いであり、原語のヘブル語*1 (Hebrew) は「あばら骨(肋骨)」という意味ではなく、「脇」という意味であり、アダムの脇、すなわち「あばら骨とその周辺の肉」を一緒に取ったのである。「あばら骨を1本」と日本語も英語も翻訳しているが、「脇の一部」という意味であると説明する人々がいる。

 

*1ヘブル語(人)かヘブライ語(人)か? 旧約聖書が書かれたヘブル語をカタカナにすると「イヴリー」、新約聖書が書かれたギリシャ語では「ヘブライオス又はヘブライス」である。参考までに英語をカタカナにすると「ヘブル」であり、ヘブル語の発音に近い。新改訳、口語訳、文語訳では「ヘブル人及びヘブル語、両方で44(42)節」、新共同訳では「ヘブライ語(人)」と使われている。新改訳を使っていながら、「ヘブライ」というギリシャ語的発音を好む人々が大勢いるのはどうしてだろう。いずれにしても原語通りに発音していない訳だから、どの方式を採用するかを決定しておけば、どれでも良いだろう。下記のサイトを参考に。

 「ヘブル語」、あるいは「ヘブライ語」、それとも「ヒブル語」? (外部サイト「牧師の書斎」)

 新改訳、口語訳では「ヘブル語」、新共同訳では「ヘブライ語」 (PDF「牧師の書斎」)


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現在では、骨が死んでいると考える人は少なくなっているだろう。図は骨を輪切りにした模式図であるが、中心部である内腔は骨髄で満たされている。骨髄移植がよく知られるようになった現在、この骨髄が全身で最も盛んに細胞分裂をしている組織の一つ、すなわち生き生きと活動している部分であることを一般人でも知っていて常識になっているはずである。しかし、骨を死んだものと長い間認識してきた人々の頭は、そんなに簡単に切り替わらない。「骨髄は別だ」みたいな、様々な議論が繰り広げられている。

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 骨は死んでいるので「カサカサ」だと思ったら、骨の20%以上が水であり、しっとりしているのである。そして水以外の固形分は約75%で、その内タンパク質が35%を占めている。すなわち、生命反応に必要な水*2とタンパク質の合計は、55~60%に達する。確かに、体の他の部分に比べると無機成分は多少多いが、それでも構成成分だけを見ても、骨髄以外の部分も生きていることが分かる。

 

*2余談であるが、月を始めとして惑星や彗星を調査する人々が「水、水!」と水を追い求めるのは、そこに生命体の痕跡を見つけ出したいという願望があるからである。水がなければ生命はあり得ないという人間の一致した見解があるためである。

 

 骨の構造を簡単に描いたが、骨には血管も神経も通っていて、血液が流れ酸素や栄養が豊かに供給されている組織である。骨の中心部の骨髄は血球製造工場で、盛んに細胞分裂をして造血作用を行っており、赤血球、白血球、リンパ球、血小板などが造られ、毎日実に二千億個の赤血球が造られている。骨全体は骨膜で覆われているが、この骨膜には増殖する骨芽細胞、血管、神経が多数存在しており、優れた再生能力を持っている。成長中の骨では、この骨膜の内側に細胞が並んでいて、造骨細胞として働く。骨膜は容易に骨から()がすことが出来、骨膜が残っていると肋骨は再生するので、主がアダムの肋骨を取られたときには、骨膜を残しておかれたはずである。したがって、子孫のみならずアダム自身の肋骨も、主が超自然的に骨を再生しないで最初に定められた自然法則に委ねられたとしても、極めて短期間の内に再生して元通りになっただろう。 

bible_peoples_3-0011.jpeg 骨の分析値を示した所で説明したように、骨膜や骨髄以外の部分も生きていて、ただの白い粉だと思われていたリン酸カルシウムも代謝回転し、古い細胞は()て新しい細胞が造られ、いつも新しく生まれ変わっているのである。骨折をしても約1ヶ月で治ることはよく知られているが、骨が常に新しく再生されているからである。それをイラストで示す。破骨細胞(緑色で示す)が古くなった細胞を(こわ)して処理し(骨吸収)、骨芽細胞(黄色で示す)が新しい細胞を造って補修する(骨形成)という、正反対に見える二つの反応が、生きている間は協力して同時進行している、すなわち新陳代謝を行っているのである。

 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139篇15,16節)

 

[4]アダムに必要だった仲間

bible_peoples_3-0012.jpeg主はエバをアダムのところに連れて来られた。次の記述からよく分かるように、アダムはエバを一目見て、飛び上がって喜んで叫んだ。

 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2章23節)

 「[男]はイシュ(ヘブル語)だから、男から取られた[女]をイシャ」とアダムが名付けたのは、その響きから何となく理解出来るだろう。*3

*3旧約聖書がヘブル語で書かれているので、多くの人々がアダムやエバがヘブル語を使っていたという前提に立っているが、彼らがどのような言語を使っていたのかは、実は全く分からない。

 

日本語では男と女という言葉の響きに何の関連も見いだせないが、英語では「Man(男)から取られたのだから、これをWo-Man(女)と名づけよう」ということであろう。

 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体(one flesh・一つの肉体)となるのである(創世記2章24節)。

bible_peoples_3-0013.pngこのようにして主の創造は完成した。アダムの複製を造るのではなく、二人が独立した存在として向き合い、互いに補い合う完全な人格的調和の中で一つにすることによって、満たそうとされたのであった。人と人との交わりは、人間が最初に必要とするものであり、妻の究極的な目的は、子を産むこととされてはいない。また結婚における二人の結合は、排他的(はいたてき)、永続的であり、神が結ばれた(きずな)なのである。

 さて、二人は「男」と「女」との違いを除いて、その他の部分は全く同じであった。すなわち、遺伝的性質は、図のように染色体で示されるが、二人の唯一の違いは性染色体だけであった。アダムの性染色体は[XY]であり、エバの性染色体は[XX]である。それ以外のNo.1からNo.22までの22対の染色体は全く同一であり、寸分の違いもなかった。まさに「一体」だったのである。

 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(創世記2章25節)。

bible_peoples_3-0014.jpeg二人がどんなに純粋で無垢(むく)であったか、今の私たちには想像することさえ出来ない。そのためにこの一節だけでも様々な議論が繰り広げられている。例えば、「二人はシャカイナグローリー(キリスト)の光に包まれていたので、互いの裸は見えなかった」という説がある。つまり、ある意味で目隠しされていたので、やっぱり相手の裸の姿を直視できなかったという、罪深い今の私たちと同じ次元の話になってしまう。

 現在、人はアダムから引き継がれてきている原罪を背負って生まれて来るのであるが、それでも生まれたての赤ちゃんは裸を恥ずかしいなどとはよもや思わない。ましてアダムとエバは純粋無垢であったので、互いの姿を、肉体も含めてその存在全てをそのまま受け容れることが出来たのであり、神の姿を頂いて創造された人とはまさしくそのようであったのであろう。「私の骨からの骨、私の肉からの肉」を共有する、真の意味での美しい人であったのであろう。聖書は文字通り素直に読むべきであるという尊い教訓を学ぶべき1節であると思う。

 

[5]相補う重要なパートナーとしての生活

創造主の完全な庇護(ひご)のもとにあって、幸せな生活を二人がどれくらいの期間享受(きょうじゅ)したのか、聖書には何も書かれていないので全く分からない。聖書では、この後いきなり3章の無残な出来事が記述されているので、これが創造の祝福を受けた翌日、すなわち8日目、あるいは数日後の出来事だと、大多数の人々が理解しているようである。蛇の誘惑にまんまと引っかかって創造主に叛逆(はんぎゃく)するまでに数ヶ月、数年、数十年を想定する人々はほとんどいないようである。しかし、アダムの年譜(ねんぷ)を考えると、70~80年は可能な年数の中に入ってくる。そして、その間に、大勢の子どもたちに恵まれたことも可能性として排除できない範疇(はんちゅう)に入ってくる。なぜなら、カインが主に追放されたときには、地上にアダムの子孫たちが大勢いたという記載(きさい)があるからである。この点に関しては、「1-2 堕落」及び「1-3 千年の寿命を祝福されたアダムの子孫」の項を参照。

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主に背く前に二人がどのような生活を送っていたかは分からないが、主のお造りになった自然を楽しみ、動物たちを慈しみ、二人でエデンの園を散策するひとときもあっただろう。また、園を管理し、畑を耕す楽しい労働もあっただろう。園には花が咲き、実をならせ、動物たちは子どもを増やし、二人にも子供たちが生まれたかも知れない。そして、最も楽しい主との語らいの時間があったとしたら、どんなに豊かな日々であったことかと、想像するさえ楽しい。

創られた二人は霊魂体が調和の中に整っていて、真に健康で今の人類には想像さえ出来ない(うるわ)しい存在だったことだろう。二人は互いに愛し、支え、全てのことを分かち合う関係だったことだろう。

 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。(Ⅰコリント書11章11,12節)

 bible_peoples_3-0017.jpegだからこそ、主に背いた後のみじめさはどっしりのしかかり、思わず茂みに身を隠してしまったのかも知れない。(創3章8-10節)

 

[6]人だけに与えられた創造主のかたち

非常に遺憾(いかん)なことに、二人はこの素晴らしい環境を真っ二つに引き()いてしまった。主に(そむ)いた出来事(「1-2 堕落」を参照)は、この主題を大きく()れてしまうのでここでは取り上げないが、その結果、二人は裸で生きるという最高の幸せを振り捨ててしまった。それは肉体に(ころも)をまとって隠すということだけではなく、ありのままの自分で生きていくことが出来なくなったということである。「あなたは、どこにいるのか?」(創3章9節)と主に問いかけられても、まともにお返事することができなくなってしまったのである。こうして人類史を悲惨(ひさん)な方向へねじ曲げてしまった。

 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。(創世記3章20節、新改訳)

彼女がすべて命あるものの母となったからである。(新共同訳)

because she would become the mother of all the living. (NIV)

この節を理解するために他の翻訳と、英語の翻訳(NIV)を紹介する。新改訳だと、「その時に生きていた者の母だった」ということになるが、エバは、その時生きていた人々だけではなく、それ以降に生まれてくる全ての人々の母、すなわち二十一世紀の現在生きている私たち、及び将来生まれてくる全ての人々の母であるということである。アダムが全人類の始祖であるように、エバは全人類の母であるということである。そして、アダムは始祖、エバは私たちの母として尊敬出来る先祖であったと信じる聖書的な裏付けについては、「1-3 千年の寿命を祝福されたアダムの子孫」に記載する。

  創造主はご自身の姿を映して、すなわち主の御性質を二人に与えて、アダムとエバを特別に創造されたのである。したがって、抽象的に考える能力、科学的・哲学的思考、創造する能力など、特別な頭脳活動が許されており、そして主は心に知恵を与え、知識と英知を与えられるのである(箴言2章6節、Ⅰ列王記3章12節)。

 また、美や感情を理解し、時・永遠・宇宙空間を思う心を人に与えられた(伝道者の書3章11節)。そして、他を(かえり)みる心・良心・感謝の心(詩篇9章1節)、正義・公正・秩序・(きよ)(詩篇33章4,5節) を人に与えられた。

 そうして、最も大切なことは永遠の霊を与えられたことで、創造主と霊魂を通わせ合い、主を愛し霊とまこととをもって礼拝する(ヨハネの福音書4章24節)能力を頂いたことである。それは神が愛であるから人も愛する心を持ち(1ヨハネの手紙4章16節)、神が聖であるから人も聖であり(詩篇22篇3節)、神が完全なように人も完全であるようにと命じられているのである(マタイの福音書5章48節)

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このような素晴らしいものとして創造された人は、自分を造って下さった創造主にそむいたので死が入り込み、そして全人類が背いて罪を犯し続けている(ローマ書5章12節)。このように叛逆はんぎゃくしたのでこの素晴らしい賜物たまものを創造主は全て没収してしまわれただろうか?愛と恵みに満ち満ちた主は、叛逆したからといって没収してしまわれなかったのである。人は主にあるいのちを失ったのであるが、キリスト・イエスを信じる信仰によって(ヘブル書1章3節)、そのいのちも再度与えられて、主を讃美、礼拝し祈ることが出来るようになったのである。

 人は、心も体も裸で生きた日々のことを覚えている。意識下で覚えているということではなく、神の霊を与えられている人であるから、しっかりと脳裡のうりきざみ込まれているということである。そして、そのような素晴らしい日々がやがて戻ってくることが約束されており、主を信じる者たちはその日の来るのを心待ちにしている。(イザヤ書11章1~10節)

 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。(イザヤ書11章7、8節)

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神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3章11節)