1.蛇の誘惑・陰謀

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[1]思いのままに 

 主はエデンの園に数々の素晴らしい木々を生えさせられた。それは美しく、又美味しそうな実をたわわに実らせていた。人は働きもせず、苦労を一切しなくても、主がエデンの園に置かれた美味で栄養豊かな植物を楽しんで食べることが出来たのである。そして、園の中央には特別な「いのちの木」と「善悪の知識の木」を主は生えさせられた。それらがどのような木であるかを、主がアダムに話されたという記述はないが、その後の記載からどのような木であるかをアダムは、そしてアダムを通してエバも理解していたと考えられる。このことについてはこの項と次の項で記載する。

 どのように素晴らしい実がなっていたのか、私たちには理解出来ない。私たちが想像する木の実は、リンゴや桃、バナナや梨、あるいはマンゴーや各種ナッツなど、魅力あふれる美味しい果物や木の実は数多くあるだろう。しかし、いずれも主食にはなり得ないものである。手を加えないで食べられる穀類が穂を垂れていたのかも知れないし、タンパク質を充分含んだ栄養のある果実、現在の定義では果物ではない果実が土地からの産物として実っていたのだろう。いずれにしても、土地から得られる恵みの産物が人の食糧として与えられたのであり、それだけで栄養豊かな、幸せな食事とすることが出来るような様々な産物であったのである。

神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。(創世記2章16節)

daraku (2).jpeg そして、信じられないようなことを主はおっしゃったのである。「園の『どの木からでも』『思いのまま』食べてもよい。」好き放題に、思う存分食べてもよいという許可を与えられたのである。今の私たちが、好き放題に食べたらどうなるだろうか?誰であっても健康を損ねることは間違いない。

子どもは正しい保護者に育てられている場合は、全人的な健康管理をしてもらっているはずである。*1また、きちんとした大人は自分で制御して、気が付かないうちに「腹八分目、医者いらず」を実行しようとしている。ところが、時々その制御が利かず様々な形で健康を損ね、年を取るとメタボなどと言われる不健康状態に陥ってしまったり、栄養が偏ってしまって病気になったりしてしまう。だが、創造された本来の人は、「思う存分に食べても」それは適切な食べ物を適切な量、必要充分に食べることが出来るほど主に頂いた体を護る制御機能が働いていたのである。

*1ただ、残念なことにそのような時代は過ぎ去ってしまった。徳育は親の責任であったのは遠い昔で、徳育どころか、普通と言われる家庭で、まともな食事を与えられていない子どもたちは例外ではなくなっている。日本の多くの平均的な親がいわゆるジャンクフードを平気で食べさせて、まともな食事を食べさせていない憂うべき状況になっている。

アダムに思いのまま食べてもよいと言われたのは、食べ物だけではなかった。創造主と顔と顔を合わせて語り合い、心を通わせあうという恵みと祝福の中でアダムとエバの人生は始まったのである。主の愛をじかに感じとり、主に従って歩むことが幸せであり、行動においてもまた、思いのままに振る舞うことが全て御旨にかない、健康で豊かな人生を歩むことが出来たのである。すなわち、そのようなものとして私たちの先祖、人は創られたのであった。今の時代を生きている私たちには、そのような恵みに満ちた祝福は想像することさえほとんど不可能である。

自由自在に振る舞っても良いという許可がどんなに大きなことか、凄いことなのか、アダムは理解していただろうか?初めから自由を与えられたために、創られたばかりのアダムはその膨大な自由を自然に受け取っていたのかも知れない。私たちには信じられない知識と知恵を与えられた成人として突如地上に置かれたのではあるが、しかし今の人類のだれ一人として比べるべくもない知識と知恵、能力を備えて創造されたのだと考えられる。

 

[2]取って食べたら死ぬ

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章17節、新改訳)

daraku (3).jpeg思いのままに振る舞っても良いと、絶大な自由を与えられたのではあるが、ここで主は一つの重大で大切な制限を設けられた。「思いのまま」という自由に加えられた、たった一つの制限であった。「『善悪の知識の木』からだけは取って食べてはならない。」なぜいけないのかを主が説明なさったのかどうかは分からないが、多分説明はなさらなかったのではないかと思う。自分を創造し、祝福で包んで絶大な護りの中において下さっている御方には、無条件で従うことが当然だと思われるからである。ただ、取って食べたら『必ず死ぬ』と言われた。アダムは「死」をどのように理解したのだろうか?全く知らなかったのかも知れないし、知識としては初めから与えられていたかも知れない。しかし、体験的に知らなかったのは紛れもない事実である。

 二人は木の実を食べても死ななかった。それどころか、アダムは延々と930年の長寿を祝福されたのである。この「死ぬ」をどのように読むべきかについては、次の「(2)木の実を食べただけ」で詳細に考察するが、主に背いて木の実を食べたために二人が直ちに実感した変化は、主を恐ろしいと感じたことと、互いの愛が損なわれたことであった。二人が「死ぬ」とはこういうことなのだと理解したのかどうかは分からない。

ただ、後世の人々が、聖書をそのように解釈するのが、ごく普通になった。主が仰せになった「死ぬ」の意味は、神から引き離された「霊的死」であり、又、二人の愛の関係が引き裂かれた「魂の死」であって、「肉体の死」ではないという説である。そして、それがキリスト教会の普遍的見解のようである。つまり、蛇(サタン)がエバに(ささや)いた「決して死にません」を、神学者や教役者たちが採用したのだろう。

 しかし、不老不死に創造されたアダムもエバも、長寿ではあったが結局、肉体的にも死んだのである。そのことを、どうやら人々は不問に付したようである。次の「(2)木の実を食べただけ」に詳述する。

 

[3]狡猾(こうかつ)な蛇の陰謀

daraku (4).jpeg 「3.すべての人の母 エバ」で書いたように、無邪気な二人の姿が書かれている創世記2章25節のすぐ後に次の3章1節の狡猾な蛇について記述されている。

さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。(創世記3章1節a)

誤解がないように最初に明確にしておきたいのは、神は蛇を「狡猾なもの」としてお造りになったのではない。神が創造なさったものはすべて良いものである。ここに書かれているのは、創造された後で堕落した「蛇」である。イザヤ書には「暁の子、明けの明星」、麗しいルシファーが天から落ちたと書かれており、これが「蛇」である。

暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。(イザヤ書14章12節)

「暁の子、明けの明星」はNKJVでは、「ルシファー、明けの明星」と翻訳されており、美しい金星は、英語では「ヴィーナス、明けの明星」である。

日本語では「蛇」と翻訳されている生き物であり、この3章1節を読むと、私たちは大蛇かマムシのような蛇を連想する。しかし、この時点では、この生き物は脚を持って歩いていたのである。人を陥れたために、主に罰せられて「呪われたもの、地を這うもの」に変えられてしまったのである(創世記3章14節)。ちなみに英語訳(NKJV、NIV)では、サーペント(serpent)と翻訳されており、通常のスネーク(snake)とは異なった単語である。すなわち、明けの明星、美しいルシファーであったということであろう。だからこそ、エバもアダムもだまされてしまったのだろう。(蛇がエバに巧みに騙しに掛かるとき、アダムも側にいて一切を見て、また聞いていたのである。)頭脳明晰なサーペントの狡猾な騙しの手口を見てみよう。

蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3章1節b)

daraku (5).jpeg賢い蛇は、エバの方がよりくみし易い、騙し易いと思ったのだろうか、エバに話しかけた。さて、この蛇はどんな姿形をしており、どんな表情を浮かべて、どんな声で、どのように話しかけたのだろうか?このように丁寧で平板な文字にしてしまうとそれが見えない。そして、この蛇が狡猾であると書かれていて本性を知っており、また後に何が起こるかを知っている人々は、これを画像にするときに悪意をたっぷり滲ませた、憎らしい蛇の姿に描くのである。だが、悪者が悪者だという看板を掲げて近づいて来たら、誰が相手にするだろう。誰が騙されるだろう。もし蛇が本性丸出しで、イラストのように悪の根源のような姿をして近寄ってきたとしたら、この蛇はドスを利かせて乱暴に語りかけただろう。「『お前らは、園のどの木からも食べてはならねぇぞ!』と、神はほんとに言いやがったのか? 」と怒鳴りつけたとすると、エバのみならずアダムも、蛇の言葉が終わる前に一目散に逃げてしまったことだろう。

今の世の中でも、騙そうと狙ってくる悪者は、善人であるという仮面を被って親切そうに近寄ってくるのである。親切そうに近づいて来たこのサーペントも、恐ろしい悪巧みを隠して美しく親切そうな顔をして近寄ってきたはずで、それを描いてみた。この美しい女性は、悪意の尻尾を巧妙に後ろの木に巻き付けて隠してしまっている。そして、優しそうな笑みを浮かべて親切そうに声を掛けた。「どんな木の実も食べてはいけないと言われたのか」と、神は慈悲深くはないのだよと、エバの心に不信感を植え付ける。それでエバは弱々しく答える。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」と言って、主を弁護するのである。主は弁護される必要は全くなく、実は被造物である人が主を弁護するという不遜な行為は許されることではない。これは今の私たちもしばしばエバと同じように、聖書をそのまま伝えるのではなく、聖書を弁護しようとすることがあるが、とんでもなく間違った行動である。そして、エバは主がおっしゃったことを大幅に値引きして答えることになってしまっている。事実は「思いのままに食べても良い」とおっしゃったのである。

daraku (6).jpegそして、蛇は次のように確認のための質問を畳みかけた。「本当に言われたのですか?」人は「ほんとうか?」と聞かれると自信を失うものである。エバもそうだった。「あれ!? そうだったっけ?」と、自信を失ってしまった。主は直接エバに言われたのではなかった。アダムが主の命令を承ってエバに伝達したのである。アダムは正しく伝達したという前提であるが、少なくともエバにとっては伝聞であったためかどうか、蛇に「本当か?」と聞かれると、よく分からなくなってしまったのである。

エバは弱々しく答えてしまう。「園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。』」と、主の言葉を差し引きし、変更し、そして主がおっしゃらなかったことを付け加えて、「食べても、触れてもいけない」と、いっぱい禁じられたように錯覚して頭がおかしくなってしまう。でも、何故いけないと言われたのだろう?「そうだ!主は親切な方だから、『あなたがたが死ぬといけないからだ』、私たちを守るために言われたのだと、さらに主の弁護をしてしまう。主の弁護をするのは善意に思えるかも知れないが、とんでもない不遜な振る舞いである。

蛇は女を完全にペテンに掛けることに成功し、「しめた!」と思って、さらに詰め寄ってくる。「あなたがたは決して死にません。」神の言われたことを全面的に否定し神は嘘つきだと、エバに釘を刺すのである。エバは蛇の言うことに疑いを持たずに耳を傾けるところまで騙されてしまった。蛇は神が美味しい木の実、知識の木の実を食べるのを禁じた理由をねつ造してエバの頭を混乱させるのに成功する。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(3章5節)

蛇は陰険であり、執拗しつようにエバに迫ったのである。「今は目隠しをされているのだが、その実を食べると目隠しを取り除いて、見えないものが見えるようになるのだぞ。そうするとお前たちは神のようになれるのだ。そうすれば自分で善悪を知ることが出来るようになる。それがどんなに素晴らしいことか、分かっているのかい?神はお前たちが神のようになっては困るので、その実を食べてはいけないと禁じたのだ!」

神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。(2章9節)

人は何かをダメと禁止されると、実態より遙かに良いものであるように受け取ってしまいがちである。アダムやエバも、この時にはすでにそんなとんでもない心情を持つようになっていたのだろう。本当は知識の木の実だけが魅力のある木の実ではなかったのである。エデンの園には素晴らしい木が主によって用意されており、善悪の知識の木が取り立てて素晴らしいとは書かれていない。アダムとエバが蛇の悪巧みに陥ってしまったときの彼らの心情を描いてみると、真ん中の知識の木の実が、一番魅力があるように見えてしまったということである。

daraku (7).jpegそこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(3章6節)

親切そうに近づいて来たサーペントに、エバは完全に打ちのめされてしまった。言われてしみじみ見ると、それがどんなに素晴らしいことかに気が付いた。

①食べるのに良く:生理的、肉体的な大きな誘惑が迫っていた。美味しいものを美味しいと楽しむのは、主に与えられた恵み・祝福であり、本来は悪いことではない。しかし、食べるのに良いものは山と与えられていたのである。取り立ててこの知識の木の実に誘惑される理由はなかったのである。

②目に慕わしく:感情、美的感覚への誘惑であるが、これも主に与えられた祝福であり、美的探究は素晴らしいことである。しかし、制御されないで誘惑に陥るのは、創られた美しい人の本来の姿ではない。

③賢くする:知的、霊的洞察力は、本来は人だけに与えられた賜物である。しかし、制御を外れて、自分が神となって、真理・正義の基準を自分が決定したいという誘惑に陥ってしまったのである。

主に与えられた素晴らしい賜物が暴走を始めたとき、人類はいのちを失い滅亡へとまっしぐらに突進することになったのである。

驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。(第二コリント書11章14~15節)

人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3章11節)