ハンカチィーフ!ハンカチィーフ!

シェイクスピア四大悲劇の一つ「リア王」を読んだのは、多分小学校3年か4年の時だっただろうか。最も愛していたはずの末娘コーディリアの真摯な愛の表現を理解しない父、リア王の愚かさと理不尽、そして美辞麗句を散りばめたお世辞で父を騙して、財産と権力のすべてをむしり取った後に、父王や妹夫婦を虫けらのように惨殺する二人の姉たちの冷酷さに、心が煮えたぎったことを思い出す。シェイクスピア作品を読むには頭脳も心も幼く、あまり理解してはいなかっただろうが、愛という言葉の陰に蠢く(うごめく) リア王の歪んだ自己愛、利己主義、心の動きに、言葉にならぬ大きな疑問を抱いたのは事実である。

小説は何がしかの真実を伝えるために、特徴を誇張して描くという手法を採用する。シェイクスピア作品は、「リア王」のみならず、「ハムレット」や「マクベス」でも、また、ユダヤ人に対する偏見を助長するのに一役買った「ヴェニスの商人」でも、人の心の奥底に潜むものを実に巧妙で鮮やかにえぐり出し、誇張して、「人間」というものを描いている。実際の人間は、ここまで極端に愚かでも、滑稽でも、冷酷・残忍でもなく、こんなに易々と奸計に引っかかりはしない「だろう?」と、左脳は希望的観測をする。一方で、右脳をも充分楽しませ活性化させる構成と筆致で迫ってくる。人の心のありようの究極はこうなのだろうと心の内まで揺さぶられ、登場人物に思わず感情移入してしまうだけの文学的力量が凝縮された、珠玉の作品群である。

四大悲劇の一つ「オセロ」は、シェイクスピア作品の中ではあまり知られていないかもしれない。主人公のオセロはムーア人でヴェニスの貴族、キプロスの軍隊の指揮官である。ムーア人は北西アフリカの肌の黒いイスラム教徒の呼称であり、シェイクスピア時代のイギリス文学においては一般に蔑視され、悪役として描かれることが多かったようである。が、そのような時代背景の中で、珍しいことに色の黒いムーア人オセロには多少同情的で、オセロの部下である色の白いイアーゴは、救いがたい悪の権化として描かれている。

社会の混乱に困り果てた米国は、大統領候補に女性を選ぶか、黒人を選ぶか、前代未聞の選択を迫られた! そして、大統領選挙では差別意識を乗り越えて黒人の勝利となった。米国の大統領選を巡って、人間の様々な姿が映し出された。二十一世紀になってさえ、人種差別も女性差別も脈々と生き続けているということ、アメリカ人のような先駆者精神に富んだ国民でさえ、人間というものは本質的には「今まで通り」が好きな保守的な生き物であるということ、そして、あれだけ大変な社会情勢にならなければ、差別意識に打ち勝つ重大な選択ができなかったということを露呈したことである。

さて、ムーア人である誇りと、黒人である劣等感を併せ持っていたオセロは、不釣り合いに格式の高い家族の出身で肌の透き通るほど白く美しいデズデモーナを、遂に妻として射止めた。彼女がオセロを心から愛していたので、父の反対を押し切ることが出来たのである。舞台設定は、黒人蔑視が当たり前で、デズデモーナの父が、「娘が黒い胸に飛びこんでいくはずがない、オセロがたぶらかした」などと、平然と言ってのけることが出来た社会だったのだけれども。

オセロの旗手イアーゴは、同輩キャシオが自分より先に昇進したことを妬んで陥れるために、デズデモーナがキャシオと浮気をしているとオセロに密告する。オセロがデズデモーナに贈ったハンカチをイアーゴは盗んでキャシオの部屋にこっそり置いておき、浮気の証拠であると騙す。なんと、オセロはイアーゴの奸計にまんまと引っかかってしまい、妻デズデモーナを殺し、自身も自殺する。キャシオも殺され、イアーゴの妻のエミリアも夫に殺され、イアーゴは悪事が発覚して捕縛されて、最も厳しい処刑をされる。こうして、皆殺しという、残酷な結末である。

私がこの作品に最初に接したのは、舞台で演じられたものをイギリスBBC放送がテレビで放映したもので、多分1970年代半ば、30年以上も昔のことだが、俳優たちの迫真の演技の映像や言葉が、瞼や耳の奥に鮮やかに甦ってくる。

イアーゴは優秀な頭脳をフル回転して計画を練り、全エネルギーを集中して、執念深く一歩一歩確実に相手を追いつめていく。利用できるものは全て利用し、邪魔なら妻さえ殺してしまう非情さなど、徹底的に醜い人物像である。イアーゴを演じた俳優の演技は抜群であった。彼の中に渦巻く嫉妬、憎悪、復讐心、奸計を巡らす頭の良さと心の醜さを余すことなく演じていた。

一方、まるで子どものように騙されるオセロの精神状態は、疑り深い性質、激しい嫉妬心、間違った劣等感と自己憐憫、妻を愛していたのではなく歪んだ自己愛という複雑な素因を抱え込んでいた。美しい妻が、こともあろうに自分の副官と浮気をした!? 自分が贈ったハンカチが、副官の部屋に落ちていたのが、何よりの証拠である! 赦せない!

「ハンカチィーフ ! ハンカチィーフ ! ...」、「ハンカチィーフ ! ハンカチィーフ ! ......」

凄まじい形相をして、ガラガラ声で絶叫して回るオセロの姿! 嫉妬に狂い、無惨に傷ついた心を持てあまし、常軌を逸した見苦しい心を映し出す声が舞台いっぱいに響き渡る。

吹けば飛びそうな証拠とも言えないものに振り回され、疑心暗鬼、嫉妬と劣等感の塊になって狂ったオセロは、「信じたい、いや、信じたくない」という錯綜した心理状態に陥り、悪魔に魅入られたイアーゴに食い込まれる。信じてはoselo.jpgならない人を信じて簡単に騙され、一番信じるべき人を信じることができず人の本質を見抜けない。罠に嵌る時というのは実際、こんなにも簡単に惑わされて人の口や噂で翻弄されてしまうのである。

シェイクスピアが描き出したこれらの人物の中に、アダムから延々と引き継がれ、増幅されてきた罪の果実、創造主を敬わない人間中心主義思想、我が儘・自己中心が色濃く滲み出ている。イアーゴもオセロも人間の本質の一面を見事に誇張して描かれているのであって、イアーゴは悪人、オセロは愚かな善人と決めつけるのは的外れだろう。私たち、すべての人の中に潜んでいるイアーゴやオセロ、救いがたい人間中心、自己中心が、こうしてシェイクスピアによって小気味よく誇張されて描き出されているのである。

欺かれたり、陥れられたり、自己主張が受け入れられなかったりしたときに、オセロのように、「ハンカチィーフ ! 」と大声で怒鳴り散らしたいという誘惑が心の中で蠢くことがあるだろう。言うまでもないことながら、「ハンカチィーフ」はただの象徴に過ぎない。それは、何か高価な物質であるかもしれないし、社会的な立場・地位・身分、または名誉であるかもしれない。あるいは、自我、歪んだ自尊心や、今の時代に人々が喘ぎ求めている「認められたい欲望」であるかもしれない。

オセロは何故、どちらかというと凡庸なキャシオを副官に選んだのであろうか? 有能なイアーゴを選ばなかったのは、人間としての本質に気が付いていたからであろうか?

聖書には、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)と書かれて、人間の本質が暴露されている。そして、イエス・キリストの尊い十字架の死と復活により、「恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(エペソ2:8, 9、新共同訳)と、オセロもイアーゴも、信仰を持ちさえすれば、神の国に入ることが出来るという約束を頂いていることが書かれているのである。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)のである。


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この投稿内容は、以前、クリエーションリサーチ誌に連載したものです。