鏡よ!鏡

「鏡よ! 鏡! 世界で一番美しい女性は誰でしょう?」

鏡は「あなたが一番美しい」と言うはずだと、美貌を誇っていた王妃は自信満々であった、
今までずっとそうだったのだから・・・。

kagami_yo2.jpgああ、それなのに! 「白雪姫が一番美しい」と鏡は断言したのである。王妃の落胆、嘆き、憤怒は如何ばかりだったことか! 魔法使いの継母は、「白雪姫を森に連れて行って殺してしまえ!」と、漁師に命じたことからも明白である。魔女に二度目に殺されかけた白雪姫はただ眠っただけであり、その美しさがいささかも損なわれない姫を七人のこびと達がそばで護り、やがて白馬の王子がやって来て助け出し、若い二人が結ばれるメルヘンの世界・・・。

ドイツの民話をグリム兄弟が童話集に収載した「白雪姫」は、幼い日に絵本を読んだり、ディズニー・アニメで見たりしたことがあって誰でも知っているだろう。学芸会などで、白雪姫やハンサムな王子や愉快なこびとを演じ、あるいは、「鏡よ、鏡!」と魔女らしく呪文をたどたどしい口調で唱える練習をした楽しい思い出を持っている人もいるだろう。どんな人でも正義がなされることを心の奥底で願っているので、このような勧善懲悪の物語は人々の正義感をくすぐるのである。自分の生活とは完全に無縁であり、またあり得ない童話だから、安心して読んだり、劇を演じたり、見たり出来るのかも知れない。

しかし、実際は、「白雪姫」のみならず世界各地の民話や優れた小説は、人間の姿や、表面に出ない人の心の奥kagami_yo1.jpg側面を別人の中に強調して「善人」と「悪人」として具現し、物語に登場させているのである。ロバート・スティーヴンソン作の有名な「ジキルとハイド」では、二重人格(解離性同一性障害)の一人の主人公の中に同居している善人のジキルと悪人のハイドという全く異なる人格が、時と場所を巧妙に使い分けて二人の人間として行動している。現実の社会でも、これほど顕著ではないが、矛盾の塊である人間は実はジキルとハイドを併せ持っており、「建て前と本音」を使い分けることに長けている人は、二人の自分を自在に使い分けているのかも知れない。

この魔法使いが、白雪姫を殺したいと切に望みながら、確実に殺すことが出来なかったのは何故だろう? 漁師は何故、白雪姫を助けて、動物の肝臓を持っていって恐ろしい王妃を欺いたのだろう? そう言えば、ヨセフの兄たちも動物の血をヨセフの服に付けて、父親のヤコブを欺いたなぁ! そんなことは、この童話を楽しむためにはどうでも良いことだろうけれども、人の心に潜む闇、ねたみ心は何をしでかすか、想像を絶する悪事を企むものであることを見るのは、人間学として興味を掻き立てられることである。

kagami_yo3.jpg大人になって美しくなっていく白雪姫を若々しい美と愛でて、自分に与えられた円熟の美を喜ぼうとせずに、比較して不安を感じ、鏡にお伺いをたてずにはおられなかった王妃を悲しいと思う。嫉妬に駆られた魔法使いの王妃を自分とは関係のない世界に生きている者だとあぐらをかいているのに、実は、この王妃の姿はそっくりそのまま、私たち一人一人の姿であるのだと言ったら、どのような反応が返ってくるだろう?

「鏡よ! 鏡! 日本で一番優秀な科学者は誰ですか?」、「鏡よ! 鏡! この学校で一番成績の良い学生は誰ですか?」、「鏡よ! 鏡! 一番優秀な投手は誰ですか?」、「鏡よ! 鏡! 一番強いのは、・・・」、「・・・一番上手なのは・・・」、「・・・一番・・・」、「・・・一番・・・」

私たちは、物心付いてから絶えず人との「比較」、「競争」のストレスに曝されて生きてきている。入学試験で他人と比較され、出来る方が選ばれ、駄目な方は蹴落とされるところから人生は始まり、他人と比較するための様々な試験は生涯つきまとう。人は何事においても、自分以外の誰かと常に比較され、また不思議なことに自分でも比較せずにはおれない、相対的な価値観の世界に生きているのである。そして、いつも「鏡」の評価を求めている。

人は負けるのは大嫌いである。まして、後から来た者に追い越されるのは我慢がならない。自分より高い評価を受けた相手を逆恨みして、時には卑怯な方法さえ駆使して叩きつぶそうとする生き物である・・・この魔法使いのように。また、魔法使いが鏡を叩き割って、お伺いをたてることを止めなかったように、様々な「評価者」にお伺いをたてることを止めようとはしないのである。

絶対者・全能の創造主が自分を創ってくださったことを信じる心が何故もぎ取られたのか、それは不思議としか言いようがないが、人類はこの最高の喜びを奪われた、実は自ら棄ててしまったのだ。そして、アメーバーのようなものから順番に上等になって、魚や、カエルや、トカゲや、サルなどという動物を自分たちの先祖だとする惨めな進化論を平気で信じ込むようになってしまった。創造主を否定する思想、すなわち人間中心主義から出てくるのは相対的価値観である。自分の目に入ってくる対象と常に比較せずにはおれない悲しい性質が全身に満ちており、そして自分の方が上であると思いたいし、例え自分が変わらなくても、自分の上にいる者を引きずり下ろせば、相対的に自分の方が上に行くからそれで満足してしまう。白雪姫が死にさえすれば、王妃は自分が今より美しくならなくても、一番になるのである。

kagami_yo4.jpg「鏡よ! 鏡!」 様々な鏡に日夜問いかけている人間は、鏡が本当のことを言うのを好まない。人間は鏡の中に自分の本当の姿を見ようとしないで、目を閉じてしまうものである。・・美容院の鏡は、「美人鏡」なのだそうで、可能な限り美しく映してくれる鏡を置いて、美人でありたいという女性の自尊心をくすぐるのだそうである。嘘でも良いから、「あなたは美しい、あなたは優秀だ、あなたのほうが上だ、あなたが一番だ」と言って欲しい!

オリンピックに参加できるのは、一握りの選ばれた運動選手のみである。一人の選手の背後には、蹴落とされた何百人もの人々がいる。しかし、そのオリンピックで金メダルはそれぞれたった一人、あるいは一グループだけである。運動であれ、学問であれ、様々な分野の活動・職業であれ、もし、「一番」ということ、あるいは「優秀者」の立場に立つことが目的であるとしたら、この魔法使いのように自滅するしかない。鏡の答えが気に入らなかったときに、魔法使いの振る舞いをしようとしても、命令に従う漁師がいなかったり、自分で手を下すのが怖かったりすると、人はじっと耐えるしかない。ダーウィン・メガネを掛けるということはこういうことであり、間違った進化思想に掻き乱されて、幸せを失ってしまうのである。

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もちろん、ダーウィン・メガネを掛けて相対の世界に生きている私たちは、上ばかり見ないで下も見る能力が身に染みついている。「あの人より自分の方がまし」という慰めを得て現実と妥協し、諦めるすべを体得してしまう。しかも、このメガネのおかげで、妥協や諦めの境地に自分自身を閉じこめたことに気が付きはしない、ある意味でありがたいことに。

しかし、この惨めなダーウィン・メガネを意識的にはずすと、それまで見えていなかった真実が見えてくる。人は、創造主のかたちを頂いて、それぞれが美しく創られたのである。だれ一人例外はなく、すべての人が美しく、絶対者に愛されている存在であり、美しくない人は一人もいないことが心で理解できるようになる。自分が愛されていることを全身で受けとめることができ、自分自身を美しく尊い存在であると思えるようになり、喜びに満たされて生きることが、理屈抜きに実現するのである。

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この投稿内容は、クリエーションリサーチ誌に連載した記事を元にしています。
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