6.間隙説の問題

初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。(創世記1章1、2節、新改訳)

[Ⅰ]序

 創造の一日は、自然の一日・24時間であることを、順次、詳細に検討してきた。主がお書きになった通りに読まなければ、信仰が聖書を離れる足掛かりを与えてしまうのだということを強調しなければならないと思うからである。

[Ⅱ]創世記1章2節の難解さ

 1節については、どの翻訳も変わらず、天地万物の創造が書かれている。ところが、2節の原語(ヘブル語)は難解であるらしく、翻訳は一応二つに分かれている。①茫漠、何も無い、という翻訳と、②混沌、荒れ果てているという翻訳に分かれている。そして、そのために、この項で取り上げる間隙説が考え出される原因の一つになったようである。

[Ⅱ]間隙説・・・聖書を切り裂く説

gap_theory_1.jpg 間隙説とはどのような説なのか、まず簡単に紹介しよう。図に描いているように、聖書の重要な記述に関して、何十億年という膨大な時間を間に挿入して解釈する説である。

 創世記1章1節の創造は何十億年も前に起こったこととし、1節と2節の間に数十億年という時間を挿入して、創造された全ては完全に堕天使(悪魔)によって破壊されて化石が山と形成され、2節の状態、すなわち混沌の状態がもたらされたと考える説である。植物も動物もすべて積み重なった地層に埋もれて、化石として今に残されているとする。破壊されて「混沌」の状態になった後で、3節から31節に述べられている創造が文字通りの六日間に「再創造」されたのだという解釈である。通常の間隙説では、この間隙は数十億年と考えており、この間隙に進化論的出来事がすべて起きたと仮定しているのである。(近年、この間隙の時間は数十億年でなくても、ごく短期間でも良いと考える「新間隙説」が提案されている)。

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 間隙説を提唱している人で進化論を真正面から主張している人は余りいないと考えられるが、しかし、進化仮説を詳細に考えれば明らかなように、問題を「間隙」の中に棚上げすることによって、必然的に進化論支配に落ち込んでいるのである。このことについては後述する。

[Ⅲ]間隙説の自己矛盾・・・・地質時代の死の記録を含む

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間隙説について簡単にまとめて先に表として示したように、生成には数億年という長期間が必要であると仮定している地層と、そして地層には化石が数多く発見されているので、間隙説は地質時代の体系に立たざるを得なくなる。すなわち、間隙説自身が進化論を包含し、その中に大きな矛盾を抱えており科学的に成立しないことは明らかであ

gap_theory_4.jpgる。すなわち、①地質時代は苦しみと死の記録である化石によって決定されるのであり、②化石は本質的に進化の体系と同じであり、生物進化の重要な証拠とされている化石によって年代決定をしている。③地質時代を承認するということは、すなわち、進化を承認するということである。

 そして、地球、動物たち、そして最後に主の御姿を映してアダムとエバが創造されたこの完璧な世界が、他の諸説と同様、イラストのように恐ろしい死の化石の上に築かれたというおぞましい説なのである。しかし、創造された世界には死はなかったのであり、死ぬことになったのは創造主に反逆したためなのである。   

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節)           

 全知全能であり正義であり愛である創造主が、このように多くの苦しみと死を経由したのを見て「非常によかった」と言って、創造のみ業の終わりを祝福し、聖であると宣言なさることなどあり得ないことである。

[Ⅳ]結語

主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。(申命記32章4節)



間隙説に関しての聖書的な考察は、上に記したことで一通りは網羅していると考えられるが、詳細にわたって考察を深めたい方のために、以下に附記する。間隙説について、またその問題点について詳細に記述するので、さらに深く知りたい方は読み進めてください。但し、多少複雑であり、難解であるかも知れないので、そのつもりで取り組み、面倒だと思ったら無理をして読み続けないで、中止する勇気を出してください。
この小文の目的は知識を増やすためではなく、どこまでもキリスト信仰の基礎である全能の主による創造が揺るぎの無い確信に至るためである。

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◆専門的な考察◆

 

[Ⅰ]創世記1章2節の翻訳の比較

創世記1章1節 初めに、神が天と地を創造した。
創世記1章2節
 新改訳:地は茫漠として何もなかった 
 新共同訳:地は混沌であって
 口語訳:地は形なく、むなしく  
 創造主訳:まだ形が無く、混沌としており
 文語訳:地は定形なくむなしくして
 NIV:formless and empty     NKJV & KJV:without form, and void
 (日本語にすると両方とも翻訳は「形が無く何もない」という意味)
 TEV:the earth was formless and desolate (形がなく、荒れ果てていた)

 1節については、どの翻訳も変わらず、天地万物の創造を伝えている。ところが、2節の解釈は上記の翻訳を比較してみるとよく分かるように、二つに分かれており、①空しい、何も無い、という解釈と、②混沌、荒れ果てているという解釈に分かれているようである。そして、そのために、様々な「知者の浅知恵」を働かせることになったという次第のようである。

 

[Ⅱ]間隙説が生まれた経緯・言語的解釈

 「間隙説」が成立し得ない最も基本的で聖書的な根拠は、この後に記述する。しかし、このように、理解が分かれたのは、原語をどのように読むかという言語的な問題が端を発していると思われるので、ここではヘブル語の2節、「トーフー・ワ・ヴォーフー」の言語的な解釈を紹介する。筆者自身はヘブル語を学んだことがないので、ヘブル語に堪能な方々の解釈を紹介することに留まる。

1)「トーフー・ワ・ヴォーフー」の或る解釈
 H・グンケルは「原初の時と終末の時における創造と混沌」 (1895年)で、2節のヘブル語の「トーフー・ワ・ヴォーフー」をカオス(混沌)と説明した。すなわち1章2節の状態はまさしく混沌の状態であり、人間まで含めた最初の全創造が完了した後に、混沌の状態が出現したという記述である。このヘブル語の理解が広く流布し、聖書翻訳にも大きな影響を与えた。当然のことながら秩序ある創造の過程で、主ご自身が混沌の状態をもたらされたということは理解出来ることではない。主の創造にこの混沌をもたらしたのは堕天使(悪魔・サタン)以外にはあり得ないことであり、1節の主の創造が完成した後でサタンがすべてを破壊し尽くして、この混沌状態をもたらしたと考え、この破壊活動の時間を1節と2節の間に置く間隙説が考え出されたのである。

2)「トーフー・ワ・ヴォーフー」の別の解釈
 「トーフー」「ヴォーフー」のヘブル語の意味は、両方共に「何もない」という意味で,無秩序の意味はない。同じ意味を持つこの二つの言葉を接続詞「ワ」でつなぎ,何もないことが強調されているので、トーフー・ワ・ヴォーフーは、「全然、全く、いっさい何もない」という「無」を強調した意味である。創世記1章2節の状況は、全然全く、完全に何もない状態で、創造主が今からそこに何かものを造ろうとしておられる直前の空間である。文脈からも、地が大水と闇と神の霊におおわれている状態で、混沌の入る余地はない(野口 誠氏、奥山 実氏)。

 英語の出来る方は、以下のサイトを開いて、聴いてみてください。
 Gap Theory-an idea with holes?  
 ヘブル語(原語)を取り上げて、明快に説明している。
「トーフー・ワ・ヴォーフー」については上の説明と同様の説明をしている。ヘブル語の言語解釈は、1節と2節の間に「ギャップ」の時間を入れることは出来ず、2節は言うなら1節の説明のようなもので、時間的に1節の後に2節が起こったことではない。主が創造される前の状態を説明しているのがヘブル語の意味であると説明している。英語訳(NIV)では、この状態に「なった」(became)と翻訳しているのは誤訳であり、「トーフー・ワ・ヴォーフー」というヘブル語には、「なった」という意味は全く無い。

 

[Ⅲ]間隙説と進化論との関係

 間隙説は基本的に地質時代の体系に、すなわち進化論に立っており、説自身の中に矛盾を含んでいるということを既に上に説明した。それをさらに詳細に説明を加える。

1. 地質時代は苦しみと死の記録である化石によって決定される。化石を生物進化の重要な証拠とした上で、その化石によって地層の年代決定をするということは、本質的に進化の体系を認めるということである。よって、地質時代を承認するということは、すなわち、進化を承認するということである。

2 間隙説は、大激変は起こらないという斉一説(注)に基づいているが、間隙説は1節と2節の間に大激変を想定しており、初めから大激変無しに間隙説は成立し得ないのであって、説自身の中に矛盾をくわえ込んでいる。また、ノアの洪水も斉一説を根本から否定しており、斉一説と間隙説は矛盾している。
(注)斉一説・・・自然において、過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろう、と想定する考え方。「現在は過去を解く鍵」という表現で知られる近代地質学の基礎となった地球観。天変地異説に対立する説として登場した。

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gap_theory_6.jpg 進化に要すると想定されている幾億年~幾十億年を、間隙説では1章1節と2節の間に、すなわち聖書には書かれていない「幻想」を挿入して、そこへ当てはめようとしているのである。こうして、幾十億年の間には、「何でもあり」になって「進化が起こった」ことにしてしまったのである。

4-創造の一日は24時間」「5-一日一時代説の問題」などで記した創造に関する再解釈の試みの他の説同様に、間隙説もまた何億年という時間を導入して多くの化石の上に乗っかった説、進化を承認した説なのである。
 イラストに示したように、聖書の創造を苦しみや死で泥まみれにしている説であることは明らかである。そして、進化は聖書の記述に真っ向から逆らう仮説であることは言うまでもない。

 

[Ⅳ]間隙説は聖書と適合するか?

1)創世記1章は、「進化したとか、長い年月を要した」とかを示唆していない。どころか、完全に否定している。しかし、間隙説では、1節と2節の間に長い地質時代の時間が想定されており、聖書と相容れないのは明らかである。
 
2)創造主の存在を主張する聖書の概念と、創造主を否定する進化論の概念は正反対である。間隙説は、上に述べたように進化論を前面に掲げてはいないが、論理は進化論に帰結する。そして、進化論は聖書と抵触するのである。

3)創造の順序と間隙説が落ち込む進化の順序とは相容れない。
 間隙説自身の中に、初めから異なる二つの順序、進化論の順序と創造の順序を混乱して入れており、両立しないのは明白である。

4)創造の御言葉、「夕があり、朝があった」という言葉、そして、創5章と11章の系図に間隙説は全く適合しない。間隙説は、3日以降は聖書の記述の通りであったという仮説であるので、3日以降は聖書の御言葉に合致するように見えるが、しかし、一日、一日の節目の「よい」という主の確認の御言葉が、間隙説には適合しない。
  
gap_theory_7.jpg5) 天地創造の1週間で、人にも動物にも死はなかった。
 アダムの創造以前に、この地上に死や苦しみの証拠である化石、地質時代の証拠が生じたとしている点、大きな矛盾をはらんでいる。すなわち世界に苦しみや死が来たのは、サタンによって人類に罪が入ったためであり、創造主に反逆したためであると、聖書は明確に言っているのである。


神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章16、17節)

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節、新共同訳)

死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。(コリント人への手紙第一15章21節)  

 誰が、どのようにして地球を破壊し、生き物を破壊して化石にしたのか、間隙説では多くを語っていないが、サタンが破壊したことには疑問の余地はない。天使がいつ創造されたのか、そして、いつ堕落したかについて聖書は明確には語っていない。   

 しかし、間隙説では、天使の堕落は1章1節の後、2節以前の幻の時間があったという前提であり、その幻の時間に、まず天使が堕落したという前提に立っている。そして堕落した天使・悪魔が主の聖なる創造の御業に対して邪魔をして、すべての創造を破壊したということになる。悪魔が破壊して破滅状態になった後で、全知全能であり、正義であり、聖く愛である創造主が、言うなら修復作業のような形で「泥にまみれた再創造」をなさったことになる。悪魔の邪魔する中で再創造なさったのが3節から31節に書かれている創造の御業であるとの主張である。

神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記 1章31節)

神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(創世記2章3節)

 しかも、そのような再創造に際して工程の段階毎に、「よい」「よい」と確認をし、多くの苦しみと死を経由したのを見て、6日の終わりに「非常に良かった」と絶賛されたというのである。そして、創造のみ業の終わりを祝福し、聖であると宣言なさることなどあり得ないことである。
 この様な説は、全能の主に対する冒涜、侮辱以外の何ものでも無いだろう。

 したがって、天使の堕落の時期は、2章3節以後であることは聖書的に明白であり、それ以後、エバを唆した出来事(創世記3章)の前ということになる。

6)7日目は、他の6日と同じ文字通りの1日
 定義により、間隙説では7日目は文字通りの1日であり、これは聖書に適合する。

新間隙説
 ここで、最近提唱されている「新たな間隙説」を簡単に説明する。基本的には同じ間隙説であるが、サタンが破壊活動を行う間隙の期間は長期である必要は無いと考えるという点が異なっている。また、サタンの破壊活動は、いのち(動物・人間)の創造以前に起こったと考えているようである。したがって、化石はまだ生じておらず、化石はノアの洪水によると考えている。

 しかし、①2節の前に天使が堕落したと考えていること(天使の堕落については、前に記したように、エバを唆した出来事以前であることは明らかであるが、それ以外には聖書には書かれていない)、②1節と2節の間の幻の期間を考え、一度創造主がお造りになった全世界がサタンによって破壊されて、2節の混沌の状態に至ったと考える点に於いて全く同じである。

 聖書との適合性についてまとめて表にする。

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[Ⅴ]聖書を破壊する爆弾・・・・「科学的」という魔法の言葉 

 悪魔はキリスト信仰を攻撃して破壊しようと試みるが、一番効果的な攻撃方法は、キリスト信仰の根を叩き潰すことであるのをよく知っている。信仰の根を潰すのに効果的な道具は、「科学」という言葉である。近世の人々は「科学という言葉」に弱い。私たちは科学、科学技術の恩恵にたっぷり浴しているので、科学は正しいと信じさせられ、「科学信仰」に陥っていることに気が付いている人は少ないのである。科学への誤解とキリスト信仰への誤解は救いがたいほど蔓延していて、創って下さった全知全能の主に反逆する人々を生み出している。

 別の項目で詳述する予定であるが、ここでは科学ではない様々が科学だと誤解されて聖書を破壊しようとしていることを、イラストで説明するに留める。
また、科学とキリスト信仰の関係に関しては、秋の創造セミナー(2013年10月、於白馬)において「科学は主の御手の中に」と題して講演をした(ジェネシス・ジャパンからDVDを入手できる)。

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 キリスト信仰の土台である創造主の著書・聖書を、被造物である人間が愚かな悪賢さで切り刻み、ボロボロにした。「聖書は信じられない」という思想が、どうやらキリスト教会で根を張り、芽を出し、葉を実らせ、花を咲かせ、実を結び、繁殖してきた。「信じて良い部分」と「信じてはいけない部分」を決定して付け加えたり、削除したりするということは、聖書はもはや聖書ではなく、人間の書いた一つの著作でしかないものに成り下がってしまう。

聖書は、すべて創造主の聖霊の導きによって書かれたものであるので、私たちに真理を教え、また罪を示し、それを正し、真直に生活していくことができるように訓練してくれるのに役立つ。(テモテへの手紙第二3章16節、創造主訳)

 そして、キリスト信仰が変貌して粉々になり、人間が作りだしているただの宗教、人間の手で作った石の地蔵や、薪にでもなる木の仏像やキツネやタヌキを拝むような諸々の宗教と同列になってしまう。ちょうど、パウロがアテネの人々に宗教心にあつい人々と称したように(使徒の働き17章22,23節)、日本人もまた信心深い人々である。

なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」 また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」(Ⅰコリント人への手紙第13章19、20節)

 聖書の権威をなし崩しにするための攻撃が一向に衰えず、その攻撃が最も激しいのは創世記に対して、その中でも聖書の土台である創造の記述に対してであることを覚えておかなければならない。

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22章18、19節)

 

[Ⅵ]結語 

gap_theory_10.jpg  聖書は聖書である。そのまま受け容れて、信じるからこそ絶対の基準を提示している聖書であり、人がその信仰の拠り所にすることが出来るのである。全知全能の創造主であり、唯一の救い主である方の著書であり、よもやそれによって庇護を受けている被造物である人間が、それに手を加えてはならないのである。イエス・キリストが地上におられた時に、高い教育を受けた人々は、聖書(旧約聖書)の中に永遠のいのちがあると思い、ただ懸命に学んだ。しかし、目の前においでになるキリストが見えなかったと、キリストご自身が証言しておられるのである。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネの福音書5章39節)