1.はじめに

初めに、神が天と地を創造した(創世記1章1節)

[1]序 身近な世界 
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私たちがいのちを得た瞬間から、様々な様式・様々なレベルの「知る」・「悟る」という行動が、自己を中心にして広がっていく。周囲に存在する様々な物質やいのちの営みについて、それらを包む周辺環境や地球、そして広大な宇宙について人類は学んできた。

それぞれの物質、例えば車やパソコンは誰かにデザインされて造られたのであって、時間が経ったらいつの間にか偶然に車が降って湧いたり、ガラクタが風に吹き集められてパソコンに変身したりしないことを私たちは知っている。いのちは同じ種類のいのちから、すなわち、イヌはイヌから、ネコはネコからしか生まれないことを知っている。

図にあるように犬や猫は、人為的に操作して様々な姿形をした数多くの犬や猫の品種が作り出されている。犬はシェパードのように30-40 kgの大きな逞しい品種から、一方では愛玩犬の中で小さい、2-3 kgの、手のひらにのりそうな小さな品種までいて、現在公認の品種は130種を超える。大きさから姿形も、犬と知っていなければ決して犬とは思えない様々な犬がいるのである。しかし、犬は犬である。如何に小さくて可愛らしい犬であって、ペルシャ猫と一緒に仲良く暮らしていても、犬から猫は生まれないことを当たり前のこととして知っている。どんなに姿形が変わっていても動物の種類を決定する遺伝的素質はどこまでもイヌはイヌ、ネコはネコなので、決してイヌはネコにはならないのである。このように単純なことについては、疑問を差し挟む人はいないだろう。

[2]壮大な宇宙の観察

hajimeni_2_a1.png今まで夜空を見上げてその美しさに単純に魅了されていた人類は、与えられた探求心故に優れた望遠鏡が開発されると、今まで見えていなかった遙か彼方の、不思議に満ち満ちた宇宙の姿の一部が人々の前に明らかにされた。

昔から「永遠であり、そのもの自体として存在している宇宙」という漠然とした概念(定常宇宙説)が天文学者の共通の常識であったが、観察が進むにつれて、それが科学的に成立しなくなってしまったことに、科学者たちは愕然としたのである。創造主を離れて人間中心の深い思索に及んだために、物質、宇宙、いのち、すべてのことの始まりに関する理解は混迷の中に陥ってしまった。専門家ではない一般の人々にとっては美しいと感嘆するだけの宇宙であっても、専門家である天文学者たちにとって、この事態をどのように考えれば良いのか分からず、謎は深まるばかりになった。

科学者は「原因があって結果が生じるという、普遍的な因果関係を感じている」(アインシュタイン)ので、すべての結果には原因があるので、一番最初の原因を想定しがたいのであhajimeni_3_a1.pngる。必ずその前の原因、又その前の原因があるはずだからである。いつ、どのようにして、誰が「始め」たのか?そして、その「始め」の前には何があったのか?「始めの前」の、その前には何があったのか?非常に大切な基本的な疑問であるのに、果てしもなく続く疑問の先は茫漠とした暗闇でしかない。

さらに研究が進むにつれて、「銀河の動き、熱力学の法則、星の一生、どの証拠も一つの結論、『この宇宙には、始まりがあった』ということを指し示している」と、物理学者や天文学者達は結論せざるを得なくなってしまった。科学者たちは普遍的な因果関係を信じているので、世界に始まりがあったなどという見解には耐え難い思いをするのだろう。この「始まり」は、人類が知っている物理学の法則が当てはまらない状況下で起こり、私たちが発見出来ない力や状況の結果として起こったからである。

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地球から400光年の距離にあり、肉眼でも輝く5-7個の星の集まりを見ることができる。双眼鏡で観測すると数十個の青白い星が集まっているのが見える。

 清少納言の「枕草子」に書かれているのが有名
「星はすばる、ひこぼし、宵の明星が良い。流れ星も少し趣がある。尾を引かなければもっと良いのだけれど。」

こうして、物理学者、天文学者として宇宙に始まりがあったと認めざるを得なくなって、次に生じた数々の疑問について、考えるのを拒否するという事態まで招くことにさえなった。信頼しきっていた科学は、全く答えを与えてくれない事態は、科学者にとって堪え難いことであった。

「その大爆発の前にこの宇宙がどうだったかは、誰にも分からない。どんな方程式も解答を与えないし、私は考えることを拒否する」(J・ピーブルス)。

「宇宙の始まりについては、いかなる判断・主張も出来ない。」「我々の宇宙像は、神なしには完結しない」(E・A・ミルン)。

「誰が創造主(原動力)なのか?」と問いつめる大胆な学者も少なからずいるようである。

「無からの創造-無から自然を創り上げている神の意志-を自明のこととする方が自然だ」(E・ウィタカ-)

[3]聖書の解答

全宇宙は創造主により、無から有を「造られた」ことが、聖書の冒頭に大宣言されている。

初めに、神が天と地を創造した(創世記1章1節)

「天、すなわち全宇宙空間の広がり」と、「地、すなわち質量・物質・エネルギー」を、「初めに、すなわち時間という有限の世界に」呼び出し、存在させられたことを、聖書の冒頭で全知全能の創造主は明確に宣言しておられる。
時間がない世界を理解しようとしても、人には出来ないが、しかし、まず時間を主が創造されたのである。創造主は時間の制約を受けない方であるが、人間は時間の制約の中で存在しうるのである。
現在、主が定められた様々な自然法則・・・物理学法則・物理化学法則・化学法則・生物学的法則の中に自然界は束縛を受け、自然も植物も動物も、そして人類も存在している。

主の創造を受け取っている人でさえ、しばしば逆のことを考えて、これら諸法則は初めからあった・・・つまり前項で記載した定常宇宙説・・・と無意識下に考える。そして、その法則に従って創造主が創造されたのだと、深い誤解の中に閉じ込められていることが多い。しかし、創造主は、「無」から全てを始められた。創造主が創造に着手された時には、諸法則はなかった。創造主が諸法則を制定されたのである。

【主】のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。(詩篇33篇6節)

つまり、「無」から「存在」へと創造主が「呼び出され」たと

彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方。ローマ人への手紙4章17節)

聖書に明言されている。創造主のみが無限で永遠の存在であり、全知全能なのである。預言者エレミヤは、

「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません」(エレミヤ書32章17節)

と書いている。
このようにすべてを超越した創造主を、人間が充分に理解することは不可能だが、

「この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないこと」(ヘブル人への手紙11章3節)

を、心の奥深いところで悟ることは出来るのである。

永遠の御国に人々を招いて満たし、また住環境、食物などを整えて、人々が地上で祝福の中で快適に生きることが出来るように、創造主の叡智によって

「右の手が天を引き延ばし」、「地の基を据えて」

万物を創造されたので、「始め」のスイッチが入ったのである。

わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした(イザヤ書48章13節) 。
あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです(詩篇102篇25節)。

人間の科学を主が先導しておられるのは、物理学や天文学だけではない。主が心を込めて創造されたいのちについて、生命現象について、人の生物学的側面について、人間が理解出来る段階に応じて、様々な事実を開示して下さっている。こうして、化学、分子、原子レベルの詳細な知識を生物を学ぶ上にも応用が可能となり、多くの新事実が明らかになると同時に、生命の神秘は深いヴェールに閉ざされていることもまた人は学びつつある。

全能の主の創造について、少しずつ理解を深めて行けたら幸いに思う。


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参考文献:「創世記の記録」ヘンリー・M・モリス著(宇佐神正海訳)、創造科学研究会(1992);「創造」vol2, No.4 (1998), vol 3. No.2(1999);「クリエーション・リサーチ誌」No.11 創造論 ➀天地創造(2006.8);「だれが宇宙を創ったか」ロバート・ジャストロウ著、講談社(1992)