4.創造の一日は24時間

創造主はこの光のある時を昼と名付け、闇の時を夜と名付けられた。こうして夕があり、朝があった。第一日(創世記1章5節、創造主訳)。

【Ⅰ】地球の自転、そして夕と朝

1day24hours_1.jpg 天地万物の創造のすべて、それを土台として立つ聖書の記述のすべてについて、否定的な偏見を捨てて、全知全能の主の著書であるという正しい聖書観に立って理解する必要がある。聖書に書かれている創造の六日間が自然の日々であるのか、又は長期の時代を意味する象徴的表現であるのか、或いはそれ以外の何かであるのかを決定しなければならない。創世記1章5節「夕があり、朝があった。第一日」という時間経過の記述は、1回自転する時間が「夕と朝」で締めくくられる。そして、それが一日であることを明確に示しており、前項「夕と朝によって刻まれた一日」で記した。また、創造の1日が自然の1日、24時間であることが明確に書かれている聖書箇所も示した。

それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト記20章11節)

【Ⅱ】創造に関する自己流解釈の意味すること

 創造の一日が自然の一日・24時間ではなかったという考えのもとに、創造の1週間について様々な説が考えられた。

 真正面から進化論を主張していなくても、或いは進化論者ではないとさえ言っていても、これら諸説は間違いもなく進化論的哲学が根底にある。「進化論は科学であり、40億年の進化を証明したのであるから、科学と合わない聖書の記述は間違いであり、進化論に適合するように解釈を変更しなければならない」という考えが、思索の根底にあるために聖書の創造を解釈し直さなければならなくなるのである。

 このように創造について聖書の記述を疑った人々によって、主の創造について聖書を解釈し直す諸説が提案されている。聖書の内容を各自が好みに合わせて変更することは、聖書そのものを否定することである。すなわち、それはもはや創造主の著書・聖書ではなく、知的な探求好きな人間の著作でしかなくなるのである。

 信仰の拠り所である聖書の、しかも重要な土台に疑義を差し挟んで信仰が無事であるはずがないということを最初に警告を発しておいて、一応これら諸説を簡単に説明し、それぞれの説が根本から破綻しており、成立し得ないことを解説することにする。

 イエス様を信じていれば、6日でも40億年でも良いではないかという見解を持っている人々も相当数あるようである。しかし、イエス様は創世記の初めからおられるイエス様であり、そのイエス様は聖書(旧約聖書)を信じ、創世記を、創造を書かれた通りに信じておられたのである。その聖書を否定し、ねじ曲げては、そのような人々が言う「イエス様」は新約聖書に書かれている本当のイエス様ではあり得ない。

なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」 また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」(Ⅰコリント人への手紙第13章19、20節)

【Ⅲ】自己流解釈の諸説

 創造の再解釈の諸説を、この項では簡単に紹介して、「一日一時代説」と「間隙説」についてはそれぞれ項を改めて詳細に検討することにする。

一日一時代説 
 創造は聖書に書かれている通りの順序で行われたが、それは6日間ではなく数十億年を経過したと考える。すなわち1日と書かれている時間は自然の24時間の一日ではなく、創造の1日は千年から~千万年、~億年、一地質時代に及ぶと考える。
この考えを支持する聖書箇所としてペテロの手紙が誤用されるが、この御言葉の文脈は裁きのことが述べられているのであって、創造の時のことが書かれているのではない。

しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(ペテロの手紙第二3章8節)

間隙説
1day24hours_2.jpg 創世記1章1節において、すべてのものが創造された後に、1節と2節の間に数十億年という間隙があり、創造されたすべてがその期間に破壊され、化石が山と形成され、2節の混沌の状態になった。その後で、3節以降は聖書に書かれている通りの順序と時間で再創造が行われたと考える。

 この間隙説は天使の堕落が2節以前に起こったという前提に立たざるを得ず、主の聖なる創造の御業を堕天使(悪魔)が踏みにじり、破壊したということになる。悪魔が破壊した後で、言うなら修復作業のような形で、しかも、なお様々な悪魔の邪魔のある中で主は3節から31節に書かれている通りに再創造なさったことになる。そのような再創造の後で、「非常に良かった」と主が称賛し、7日目に祝福し、「聖」であるとされたという解釈である。この様な説は、全能の主に対する冒涜、侮辱以外の何ものでも無いだろう。

有神進化論
 すべて進化論の主張している通りの様々な順序、過程を経て、~数十億年昔、単細胞に始まり、複雑な生物へ順次進化し、悠久の長い時間を経過して進化し、その延長線上に進化によって人が生じたと考える。
しかし、これは偶然に起こったのではなく、進化の過程を行ったのは「神」であると考えるのが、通常の進化論との違いである。この「神」は、もとより聖書の全能の創造主ではあり得ないので、偶像神である。様々な動物の死がイラストのように山と積み上がった進化の後に、人が存在することになったという仮説は、聖書・主の言葉に真っ向から敵対する思想である。

 

 

▶「創造の一日は24時間」の概要は、ここまでで締めくくります。より専門的なことに関心のある方は、以下の項目を読み進めてください。

************************************************************************************

◆専門的な考察◆

 

【Ⅰ】自己流解釈の諸説

 聖書の創世記の記述を自己流に解釈する諸説は、図に見るようにいずれも創世記をボロボロにしてしまう説であり、福音の土台を突き崩してしまう。「一日一時代説」と「間隙説」については別に項を設けて、詳細に検討するが、それ以外については、ここでもう少し検討を加えることにする。

有神進化論
1day24hours_3b.jpg 有神進化論は上に簡単に記しているような説であるが、この説について聖書との整合性を検討し、この説の大きな矛盾点を簡単に紹介する。

①まず、創世記1章は進化を完全に否定しており、また長い時間を要したという概念には当てはまらない。


②聖書の創造主は聖であり、全知全能の完璧な御方であるので、この「有神進化論」に言う「神」とは聖書の創造主ではあり得ない。進化論の前提は全能の主を否定しているのである。
       

1day24hours_4b.jpg

③進化の過程の順序と、創造の順序とは食い違っており、相互に相容れない。

④「夕があり、朝があった」という創造の言葉は、真っ向から進化を否定しており、また、創世記5章、11章に書かれている系図は、進化論的長い年月と矛盾するので、聖書の御言葉と対立する思想である。

1day24hours_5b.jpg⑤天地創造の1週間で、人にも動物にも死はなかった。アダムの創造以前に、苦しみと死の証拠である化石が生じるはずはなかった。混乱・死は、創造主に謀反した罪の結果であることは、創世記にも、また新約聖書にも明記されており、罪の前には死は存在し得ないのである。


神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章16、17節)

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節)

⑥創造の7日目は、自然の1日であるということにも、この説は不適合である。

新・漸進創造論
百数十億年をかけて創造主が天地宇宙を創造されたと考える。これは進化を想定はしていないが、ゆっくり、ゆっくり創造されたと考えて、現在は創造の第七日であるとする。創造の順序をどのように解釈しているかは、不明であるが、恐らくは進化の順序を想定しているのではないかと思われる。

聖書は創造の時間は厳密に6日間と、そして聖とされた7日目が書かれており、これに適合しない。したがって、聖書の言葉、1章、5章、11章の記述と矛盾し、また死・混乱の原因についても聖書と矛盾する。
長い時間を掛けて創造したという仮定に立つと、創造主の聖であること、完璧であることなどは否定されることになり、聖書の創造主ではなくなってしまう。 

啓示日説
創世記1章は、創造主が著者に創造を示した日であって、実際に起こったこととは何の関係もないと考える。したがって、創世記1章を実質的には否定しているので、創造の1日を自然の1日とは考えず、長い年月を考え、また創世記に書かれている系図も、罪の結果呪われて死が入ったということも受け容れていない。

聖であり完璧である創造主の存在についても曖昧であり、創造の順序に関してもよく分からない立場に立っている。啓示されたという、ある意味で言葉遊びにも聞こえることですべてを闇の中に葬ってしまっている感じである。

文学的枠組み説(神話説)
創1章は宗教的真理を解明する為のものであり、言うなら神話と見なす説である。したがって、創世記1章、多分創世記全体をただの神話としか見なさないので論外である。

見かけの時代説
化石や地層も事実であると認めるが、それは創造主の御旨で、あたかも進化が起こったかのごとくに創造されたと考える説。言うなら、創造の事実のみならず、現実の宇宙、現実の地球、そして私たちの存在自身が幻の如くに見なされる。

【Ⅱ】創1章と再解釈のための諸説との整合性・矛盾

これら自己流の再解釈の説は、表面上は進化を主張していない、或いは進化を形式上否定さえしていても、突き詰めると斉一論・進化論に立ち、「天地創造の7日間に数多くの動物の苦しみと死が存在した」という前提に立っている。

これらのことを念頭に置いて、諸説を検討してみよう。
聖書と進化論とは、どのように調和させようとしても、これらが立っている土台が全く異なっているので、調和しようがないということをまず理解する必要がある。この世の知恵者が頭をひねって様々な説を考えても、創1章を地質年代や進化論と調和させようとすると大きな矛盾が目の前にそびえ立ち、決して相容れることは出来ないことを証明しているのである。

1 創1章は、「進化したとか、長い年月を要した」とかを示唆していない
2 創造主の存在を主張する聖書の概念と、創造主を否定する進化論の概念は正反対
3 創造の順序と進化論の進化の順序は矛盾
4 創造の御言葉、「夕があり、朝があった」という言葉と、創5章と11章の系図は進化論的長い年月と矛盾
5 天地創造の1週間で、人にも動物にも死はなかった。死はアダムとエバの罪の結果
6 7日目は、他の6日と同じ文字通りの1日

1day24hours_6b.jpg