2.天と地を創られた

初めに、創造主が天と地とを創造された。地球とは言っても、まだ形が無く、混沌としており、真暗闇で、液状であり、創造主の聖霊は、あたかも雛鳥がその翼を広げてひなを育んでいるかのように、その上を覆っていた。創造主が一声、「光は、出て来い」と仰せられると、光が出て来た。創造主はその光をご覧になって、満足された。そして創造主はこの光と闇を分けられた。(創世記1:1-1:4, 創造主訳)

【Ⅰ】序: 天地万物の創造とは

 宇宙には始まりがなかったと人々は長い間信じていた。だから、自然法則も無限の昔から存在していたと、人々は信じていた。・・・今は、それを信じている科学者はいない。
ten_to_chi_00a.jpg 全知全能の創造主が、「はじめに、天と地を創造された」のであり、その時に、物理法則・化学法則・生物学的法則など自然界の全ての法則を、同じ創造主が定められたのである。創造を信じる人々でも、存在していた自然法則に従って主が創造なさったのだと、真逆の思想が改まっていない人々が大勢いるが、法則に従って創造なさったのではなく、法則を創造主が定められたのである。

天と地の諸法則をわたしが定めた(エレミヤ書33章25節)

 聖書は宇宙・人類の歴史書
 その聖書全体を、聖書の権威、十字架の福音を創世記が支えている。私たち人類を永遠の滅びから救って下さるイエス・キリストの福音、キリスト信仰は、創世記の土台の上にはじめて安定して留まることが出来るのである。

【Ⅱ】水の上を漂われた御霊 

 創造主訳で、「雌鳥がその翼を広げてひなをはぐくんでいるかのように、その上を覆っていten_to_chi_00b.jpgた。」と翻訳されているように、静寂の中を主の御霊がゆったりと流れるように漂っておられる情景が記されている。

 6日間の天地万物の創造に関しては、実際に何事が、どのようにして起こったのか、私たち被造物にはよく解らない。特に1章1節、2節は非常に難解で、そこにいなかった人間には、主がヨブにおっしゃった通り、解るはずはない。

わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。(ヨブ記 38章4節)

 エネルギーの源である主が、どのようになさったのか解らなくても、主は無限にも思えるエネルギーを生み出し、それだけではなく、御霊の静かで驚異的な働きにより最高の秩序を整えられたのである。創造の記事は聖書に様々に記載されているが、それらはいずれも静かな雰囲気を伝えている。

【Ⅲ】 宇宙は空間・物質・時間の連続体

 宇宙に始まりがあったのか、無かったのかが、かつて大問題であった。人の頭脳では、「無」を理解出来ないように、「初めのその前」すなわち、時間の無い世界を理解することが出来ない。人間の小さな頭脳はそのような概念を受け付けることが出来ないので、そのために天文学者、物理学者たちは血を吐く思いをしたようである。しかし、論理的・科学的に考えれば考えるほど初めがなかったという考えに矛盾を生じ、自分たちが営々と築き上げてきた理論を捨てなければならなくなり、遂に宇宙には始まりがあったと認めたのである。天文学も物理学も余り知らない普通の人にとっては、学者たちの苦しみは理解出来ないが、信じていたことが間違っていたと認めて改める苦しみは、学者でなくても理解出来る。人は一旦これと信じてしまうと、それから抜け出すことは非常に大変であるのは、それぞれ自分自身の体験に照らし合わせると思い当たることがあるだろう。

 物理学的法則を定められた主は、時間を創造して、有限の世界を設定なさったのである。そして、「天:宇宙空間の広がり」を設定し、「地:地球・エネルギー」を創られた。エネルギーは様々な形に姿を変えることは今更説明の必要が無いだろう。火力・水力・風力・地熱などを電気のエネルギーに変換するだけでは、大量に必要な電力供給を充足できないということになって、世界中で原子力発電が推進されてきた。

ten_to_chi_02.jpg

 原子力を用いることが正しく、安全であるという神話が蔓延して、足りないエネルギーを補う当然の手段として原子力発電が二十世紀後半から脚光を帯びた。大小の原発事故を何回も体験しているにもかかわらず、人間は一向に歴史から学ばない。エネルギーは形を変える。それを正しく管理する任務を主は人類に与えられたのであったが、それが出来ないまま、人類は右往左往して真理を学ぼうとはしない。

【Ⅳ】 光が創造された

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 (創世記1章3節)

 光が創造されるまでは、真に闇の世界であった。この時点では太陽はない。真の闇である。そして、主の一声で光が造られた。地球上で生きている私たちは、光と言えばそれは太陽であると錯覚している。しかし、太陽は光源であって光の本質ではない。電球と本質的には何の差もなく光を出している光源であって、光そのものではない。

ten_to_chi_04_b.jpg

何かの隙間から光が漏れてくる場合に、その道筋が明らかに見えて光を光だと認識できる。光は物理学的に波であり粒子であると説明されている実態なのである。

神はその光をよしと見られた。夕があり、朝があった。第一日 (創世記1章4節、5節)

 

▶「天と地を創られた」の概要は、ここまでで締めくくります。より専門的なことに関心のある方は、以下の項目を読み進めてください。

************************************************************************************

 

◆専門的な考察◆

 

まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしがそれらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる。(イザヤ書48章13節)

【Ⅰ】無からの創造

 主が全てのことを成し遂げられたことは、聖書のあちこちに証言されている通りである。初めの状態は「無」であり、光が創られ、地球、空気、全宇宙、そして地球上の動植物も、そして主の究極の目的である人も、全てが無から創造されたのである。
 [無]という概念は、古今東西から各専門家、哲学者によって様々な視点から論じられて来ているが、所詮人間の理解を超えた概念である。無から有が生まれ秩序が造り上げられた始まりがあったことを認めた後に、目の前に聳えten_to_chi_01.jpgた次の質問は、「いつ?」そして、「どのようにして?」という大問題であった。しかしながら、無限とも思えるこの大宇宙全体が無から創造されるためには、想像を絶するエネルギーが注ぎ込まれたはずであった。大きなエネルギーが動くということがどういう現象であるのか、「静かな動きであるはずはない、エネルギーの大爆発があった」と、人間の小さな頭脳は想像する。それで、想像を絶する大爆発により宇宙が始まったという「ビッグバン仮説」が今も受け容れられているのである。ビッグバン仮説については、進化論の項で詳細に説明する。(C-進化論、進化論に基づく宇宙の始まり)

神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。(ヨブ記26章7、10節)              

 ヨブ記の記述が、人々の目に実際に見ることが出来るようになったのは、人が地球を離れて宇宙に飛び出したからである。地球が空間に支える物もなく浮かんでいることを、しっかりと見ることが出来たのである。科学の進歩によって聖書を明確に理解出来るようになった一つの例である。

神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。(箴言8章27節)

【Ⅱ】 物質・エネルギー

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです(ヘブル書11章3節)。

 物質すなわちエネルギーがどのように生み出され、この地上でどのように姿を変えて地上のいのちを支えているのか。昨今、人類は自分たちの生活を支えるエネルギーを得るために四苦八苦している。食べ物が手に入らず信じられない数の人々が飢えに苦しみ、そして飢え死にしている一方で、日本もそうであるが、いわゆる先進国と言われている国々では、食べられるものをどんどん廃棄処分している。世界中で人々は生き悩んでおり、いのちを支える最低限の必要である食糧の配分さえ歪みに歪んでいて、この歪みは是正される気配さえない。

 エネルギー確保の悩みについては、電気不足という課題だと言い換えれば理解し易いかも知れない。電気が不足すると、先進諸国では生きていけないほどの支障を生じるので、電気エネルギーを得るために様々に苦労していることは今更言うまでもないだろう。火力発電(石油)、風力発電、太陽光発電、地熱発電、水力発電、そして問題の原子力発電など様々な方法によって、エネルギーの形態を変えて電気エネルギーに変更している。例えば、火力発電は液体の石油のエネルギーを燃やして、電力という別の形のエネルギーにするのである。風力、太陽光、地熱はいかにもエネルギーという顔をしているので、理解しやすいだろう。

ten_to_chi_03.jpg

 しかし、水力って? 水にどのような力、エネルギーがあるのだろう? 実は、流水は位置エネルギー・運動エネルギー・圧力エネルギーを持っている。滝が上から流れて来る時、激しい勢いで岩を打っているのを知っているだろう。高い位置に置かれている水(高低差だけの位置エネルギーを持っている)が、下へ落ちる勢い(運動エネルギー)で、岩を叩く(圧力エネルギー)という複合エネルギーが放出されるのであるが、流水の持つこれらのエネルギーを水力という。そのエネルギーを例えば、水圧管路を通して水を高い所から低い所へ流し、土地の高低差によって放出されるエネルギーを電力に変換するのが水力発電である。

 火力・熱・電力・風力・太陽光など、エネルギーは形を変えることが理解出来ただろう。しかし、このようにエネルギーという顔をしているものだけがエネルギーではない。「地」という言葉で代表された物質は、別のエネルギーの形に変換できるのである。石油でなくても、例えば、木材は火を付けると熱のエネルギーとして取り出すことが出来る。エネルギーの変換効率はそれぞれであるが、物質は見方を変えるとエネルギーなのである。

ten_to_chi_06.jpg

 こうして、主は「地:質量・物質・エネルギー」、「空間:宇宙空間の広がり」、そして時間を造り、時計の針を動かし始められたのである。宇宙は空間・物質・時間それぞれが単独では存在し得ない。これら三者が連続体として存在しているのである。創造の工程においては、太陽は四日目に創造されているので、この時点では太陽はまだ存在していない。

 では、光とは何か? 光とは物理学では波の性質を持って空間を移動することが確認されており、また粒子であるとも定義されている。図のように目に見える光線(可視光線)より波長の長い電磁波(図の右側の電波)、可視光を挟んで波長の短いものをX腺、ガンマ線という。

ten_to_chi_05.jpg
 地球にとって、そして後に地球上に創造される植物や動物にとって、そして人間にとって重要な光を主は創造なさって、そして満足された・・・後に太陽がこの光を発する任務を引き継ぐことになる。創造のご計画の通りに、創造が行われた、すなわち完璧であったということである。

 後に項を改めて創造の一日について考察を加えるが、実は、あれこれと考えるまでもないのであり素直に読めば良いことなのである。光が造られ、後に太陽がその場に置かれることになるのであるが、その方角から地球に光が注がれた。地球は既に1周期を24時間として自転を開始しており、一回り24時間経過して夕があり朝があって、一日と定められている。すなわち、創造の一日は24時間であることがこの記述で明らかである。

 ちなみに、この同じ句が、一日ごとに律儀に繰り返して記述されており、夕があり、朝があって、一日、また一日と数えられて創造の日々が経過している。

あなたが朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、これに地の果て果てをつかまえさせたことがあるか。(ヨブ記38章12-13節)