3.進化思想の温室:日本

 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神(創造主)は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神(創造主)は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒の働き一七章二四~二五節)

 日本人の心の奥の奥に大切に保管されているものは何だろう? 

日本人の信仰

H3_1.jpg キリスト信仰の宣教に本気で取り組んで数多くの苦難に直面している伝道者・宣教者は、このような疑問に到達して、深い思索に悩んだことがあるだろう。余りにもあっさりと信仰告白をして洗礼まで受けておきながら、他の諸々の偶像の隊列の後にイエス・キリストをくっつけて平然としている人々、二~三年で「卒業」してしまう人々......このようなことは実はまかり間違っても本来は起こり得ないこと、不可能事であり、実際、西欧人には理解を超えることなのである。そして一方では、信じていないのに飽きもしないで何年も教会へ通い続ける人々。
「初日の出」に象徴されるように、太陽や月や星、山や森や大樹や美しい自然を拝む大勢の人々、石や木切れで人間が作ったものを「ありがたがって」拝む大勢の人々。これらの人々の人数を合算すると、人口の二~三倍にも、下手をすると十倍にもなるかもしれない。そして拝んでいる意識はまるきり無いにもかかわらず、物事の判断基準が「お金・財産」であったり、「社会的地位や名誉」であったり、「家族・恋人」であったり、「技術」であったり、「学問・科学」等々であったりする人々は相当多い。これらもまた、紛れもなく立派な「偶像」であり、これらのように形になっていない偶像と、いわゆる八百万の神々とが重なって、一人の日本人の中に多くの「偶像の神々」が居座っているようである。

 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。(使徒の働き一七章一六節)

人間の目を覆うもの:偶像・八百万の神々

H3_2.jpg 日本の年中行事は偶像が執り行い人間を支配しているのだが、無垢な一般の人々はそれに気が付かないというか、単純に浮かれている。その時々に数多くの神々に拝んでおけば、「触らぬ神に祟り無し」で祟りをしないだろうし、もしかしたらお賽銭に見合うだけの「ごりやく」を貰えるかも知れないと淡い夢を抱く。八千万にも及ぶ人々が年頭、神社仏閣へ出かける初詣は、偶像神を拝みに行くためであることは明白である。
 しかし、偶像を拝んでいるという認識をさせないで偶像が人々の内側に働きかけ、仕遂げている成果は目覚ましい。日本人の生活の中に染み込んでいる偶像の活躍は、元日から始まる・・・厳密に言うと新年の準備から始まる。

H3_3.jpg

年賀状に「干支」を描かない人の方が少ないのではないだろうか。教会で「還暦」という言葉が使われ「おめでとう」と祝われ、「熨斗」「水引」が相も変わらず使われているのは、クリスチャンがこれらを偶像であると気が付いていないということである。

 門松は年神(神道の神)を迎え入れるためである。鏡餅は穀物神への供え物であるが、それを飾るための床の間がこの頃の集合住宅にはもうないのかも知れないが、それでも年末には小さな鏡餅が相も変わらずスーパーの売り場に並んでいる。

H3_4.jpg 古くから日本人が年中行事として祝ってきたこと、執り行ってきた数々の行事は数え上げたらどれ位あるだろうか。欲の皮の張った人々は一月十日に恵比寿神社にお参りするが、前日は宵えびす、十日は本えびす、そして十一日は残り福と、欲の深いことであるが、詣ったらお金儲けが出来ると本気で信じているのだろうか?
 豆を蒔いても鬼は逃げないし福は入っては来ないのに、懲りもせずに節分を祝う。受験シーズンには学問の神様、菅原道真を拝んで合格祈願をするが、実力のない者は拝んでも不合格であり、実力のある者は拝まなくても合格する。妊娠すると水天宮に詣って安産祈願をするが、犬が安産であるから戌の日に詣りなさいということで、干支はここでも活躍している。この水天宮の祭神は訳が分からないが、仏教・神道・インドのバラモン教・ゾロアスター教とか各種宗教の寄せ集めのようである。七五三の御祝いは、どうやら益々盛んなようで、貸衣装店と写真店が共同して盛り上げている。

 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。(使徒の働き一七章二十二~二十三節)

 日本人はパウロの見たアテネの人々と同様に、いやそれ以上に宗教心に篤い人々である。日本人の宗教心は「まぁまぁ信仰」で何が混ざり合っても一向に平気である。地蔵信仰は、元々は仏教の地蔵菩薩が信仰対象で、極楽浄土に行けない衆生が地獄へ堕ちた時に、その責め苦からの救済を願う信仰であるが、それが道祖神と習合して路傍に数多く祀られることになったのが、街角の到る処に祀られている「お地蔵さん」である。びっくりすることには花や果物やお菓子が供えられており、相当多くの人々が通りすがりに手を合わせていることである。

H3_5.jpg

 こうして日本人は非常に宗教心が篤く、言うなら何でも拝んでしまうのであるが、どうやら何かを本気で信じているのではなさそうである。その宗教心は実に頼りなげで、数多くの神々に縋らなければ落ち着かないようで、幾つもお守りが欲しいし、拝む相手は石でも木くずでも、狐でも狸でも蛇でも何でも構わないようであるが、さりとて手を合わせたから相手が何かをしてくれるかなど、意に介していないのかも知れない。
 日本人は人の形を模した物に霊的な恐れを抱くので、雛祭りの人形を捨てる前にお経や祝詞をあげたりして供養してから、川に流したり燃やしたりする。また、仏壇や経典などはもとよりのこと、印章、表札、針、鋏、鏡など様々な物を捨てる前に「供養」する。物を粗末にしないという日本古来の美徳が、巧みに歪められ悪用されているのである。

 利己主義的な指導者たちの溢れる社会は自浄作用がなく、政治も経済も行き詰まっている。不安一杯の社会で頼りに出来る物が何もなく、人々は次から次へと縋り付く「藁」を探し出して、拝む対象にしてしまう。こうして、毎日、日本のどこかで偶像神を祀ったり、拝んだりする行事が行われている。

H3_6.gif

日本の偶像崇拝についてこんなにしつこく書かなくてもよさそうなものだ、「言われなくても分かっている、分かっている」と思われただろうか? 寺、仏像、仏具、仏壇、そして神社、鳥居、その他、明らかに拝む対象として祀ってある場合は、これらを間違うクリスチャンは多分いないだろう。しかし、上に書いたように何が偶像であるかという理解が届いておらず、信仰対象であると声高らかに言ってくれない数多くの物事や偶像は日本人の生活に奥深く入り込んでいて、気付かれないうちにクリスチャンを蝕んでいる。それに気付いて欲しいと切望しているのである。

そのように私たちは神(創造主)の子孫ですから、神(創造主)を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。(使徒の働き一七章二九節)

国土以上に廃墟となった日本人の心

 前回、余りにも簡単に第二次大戦についてまとめてしまったが、敗戦後、何が起こったのだろうか? 国土がボロボロになったのは誰の目にも明らかであり、疑問の余地はない。しかし、目に見えない破壊は、実は物質的な破壊より遙かに凄まじいものであったのである。国から教えられていたことごとくが間違いであったと言われ、心の拠り所となっていた支えを取り外されてしまったのである。

 天皇は「神」(聖書の唯一神の意味ではない)だと教えられ、若い兵隊たちは「天皇陛下、バンザイ!」と言って死ねと命令されたのであった。その天皇が突如としてマッカーサーの前に頭を下げ直立不動の姿勢をしているのに、マッカーサーは腰に手を置き後ろ手をして傲然と突っ立っている写真が公表された。日本人の心をどれほど蝕んだか、今の人々には分からないだろうが、当時の大人は愕然としたのである。そして、マッカーサーは遂に天皇に返礼の表敬訪問をしなかったことに、厭な思いをした大人は相当いたようである。それまでの日本の指導者は、突如として戦争犯罪人となって逮捕され、挙げ句の果てに七名は死刑、大勢が牢獄に入れられ(二千人近い)、それ以上に数多くの人々が公職から追放されたのである。当時を多少とも覚えている人々は、巣鴨プリズンという言葉にも、苦々しい複雑な思いを味わうのである。

 そして一般国民は、進駐軍による「意識革命」「文化革命」の嵐の中に曝され、様々な教育を受けたのである。筆者のような小さな子どもは小学校へ入学すると、先生たちを尊敬する心を学ばず、自分たちの気に入らないことがあると、なんと!「マッカーサーに言いつけてやる!」と言ったのである。マッカーサーが一番エライ、恐ろしい権力者であった。新しい教科書の作成が間に合わないので、戦争を肯定するような記述を抹消するようにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部、当時進駐軍と言われ、進駐軍を褒め称える歌が盛んに作られ、歌わされた)の命令により、その部分を真っ黒に塗りつぶした教科書が与えられたのである。こうして、大人の心をボロボロにし、子どもの心をボロボロにしたのである。インターネット上にこのような教科書の写真、また当時の天皇がマッカーサーに頭を下げに行った時の写真が掲載されているので、興味のある方は見てください。

人口の二倍のクリスチャン

 マッカーサーがしたことの良いことの一つは、宣教師を大勢派遣してきたことである。新島襄・八重を描いた「八重の桜」で、経済力に物を言わせる宣教師の圧力に襄や八重が苦労している場面があったが、戦後はどうであったのだろうか? 経済力のみならず、日本は無条件降伏をした惨めな敗戦国であり、戦勝国からやってきた宣教師は多分もっと高圧的ではなかったかと、ふと思う。何故なら、間違った軍国主義に染まっている日本人を、そこから救出するのだという「錦の御旗」を掲げた正義の戦士としてやってきた日本の占領軍だったのであるから。

 心の拠り所を失い、価値観をひっくり返された日本人は、非常に従順に信仰告白をしたのである。まさか、恫喝されたわけではないだろうが、驚くべき数の日本人がイエス・キリストを救い主だと告白した! 宣教師たちは大喜びで、母国に宣教の成果を報告した。その数は、日本人口の二倍以上に膨れあがっていたという! すなわち、一人の人が何度も数えられていたということである。何という無節操な訳の分からない日本人たちであり、また訳の分からない宣教の仕方をしたのであろうか? そして、その人たちは、あっという間にほぼ全員どこかへ消えてしまったのである。

 現在は、戦後とは異なるが、このような八百万の神々に牛耳られているという点を取り上げるなら、真の神、創造主を伝えるのには同様の厳しい局面に立ち向かっている。人々が拠り所を失い、生き悩んでいる点に於いては、戦後より厳しい状態であるかも知れない。あの時には、価値観をひっくり返され、自信を失い、拠り所を失ってはいたが「どのようにして生きようか」と、生きることを模索していたようである。今は、生きるということ、いのちに社会全体が疑念を抱いているようである。その底力を失った、活力を失った社会に本当のいのちを注ぐことが出来るのは、創造主、イエス・キリストである。そのことを握りしめて、人々に福音を語る必要があるのである。

 パウロは異邦人伝道の手本を示しているが、最後に次のように結んでいる。

 神(創造主)は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神(創造主)は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒の働き一七章三〇~三十一節)

 


このシリーズは、マルコーシュ・パブリケーションの発行するキリスト教月刊誌「ハーザー」で2014年2月から連載した内容を転載したものです。