4.筋金入りの異邦人と新約聖書

 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙三章二十九~三十)

進化論の激流にのまれるまで

 この「創造と福音」のシリーズの第一稿(ハーザー二月号)に、存在しているものの起源・人は創造主の御姿を映された尊い存在であること・救い主キリストの愛、について簡単に記した。
 第二稿では、「進化、進化」の大合唱を演じている日本・鎖国→開国・明治維新の混乱・世界の分捕り合戦に乗り遅れて、猪突猛進した日本の歴史・敗戦で人の心が崩れ、寄り処を失っていたことなど、進化論に突入した重要な要因を概観した。
 第三稿では、進化思想の温床の中で信仰心の篤い日本人は、何でも拝むことが習性になって次々と偶像の神々を日ごとに増やしてきたことを概観した。混乱の中でイエス・キリストを信じたと勘違いした人々は、その偶像神の後にイエス様をくっつけてそれで良いと思ったのだろう。

日本は宣教師の墓場?

 近年、世界中で進化論の嵐が吹き荒んでいるが、特に日本は荒れ地であることを歴史的流れに沿って三回に亘り概観してきたことを上に要約した。それが牧師とか宣教師とかという任命を教団などから受けていてもいなくても、福音宣教という任務をイエス・キリストから頂いた人々は、努力に努力を積み重ねても、その実りの少ないことに時にはがっかりし、時には涙を流し、時には怒りさえ覚えるほど苦い体験を日常茶飯に味わっている。宣教の使命を受けて外国から日本に来て苦労している人々は、戦後ほどではなくても少なくはない。しかし、日本は宣教師が一番来たくない宣教地であるようで、「宣教師の墓場」と言われているそうである。

hazah4_1.jpeg イラストに描かれているように、宣教者は知恵をかき集め、工夫を凝らして、あらん限りの力を振り絞って福音の種を撒いている。日本人は本来争いを好まない国民性を持っており、争わないで「まぁ、まぁ」で済ませたいという気風がある。信教の自由が法律で守られている国であるから、政治権力が介入することはなく、昔のように邪魔をしたり、迫害したりすることはない。非常に鷹揚で、拒否することなく「自由に種を蒔いても構いませんよ」と愛想よく迎え入れる姿勢の裏側で、やんわりと拒んでいる。このように日本は見渡す限りの荒れ地であって、この地に種が育たないことを反対者はしっかり知っているので安心しきっていて邪魔をしないのである。

耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。(エレミヤ書四章三節)

 hazah4_2.jpeg日本人が「考えさせてください」と返事をする時には「お断りします」という意味で、角を立てるのを好まない。筆者は、アメリカから帰国して四十年近く経っても、今以てこの「やんわり拒否」にはなじめないが、まして欧米人に分からないのは当然だろう。地中深くはびこっているいばらや硬い石は隠れていて宣教師の目に見えないので、やわらかい言葉や笑顔の陰に潜んでいる頑強な拒否の心を見抜けない。いばらや石をまず取り除いてから種を蒔かないので、一生懸命種を蒔くが当然芽が出ない。「骨折り損のくたびれもうけ」で燃え尽きてしまい、日本は宣教師の墓場だという言葉を自国に持ち帰ることになる。宣教に召される程の人々は、当然エレミヤの御言葉を承知してはいるが、日本中を覆っているいばらの実態が分かっていない。日本人宣教者さえ分かっていない人が多い...かつて自身が頑固ないばらで武装していたことを解析できていないので解らない。今、福音を信じることが出来ない当人たちにさえ、自分の心を覆っている雲が分かっていない。日本人にはイラストのように強力なブルドーザーが必要なのである。

 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。(マタイの福音書十三章三~八節)    

ユダヤ人vs異邦人

hazah4_3.jpeg 異邦人という言葉は、異国人、見知らぬ人、旅人など、様々な意味に用いられるようであるが、聖書にある異邦人とはユダヤ人以外の全ての人々のことである。アブラハム・イサク・ヤコブの子孫、創造主との契約を託された民がユダヤ人である。救いを受ける創造主との約束・旧約をこの民族が授かり、主に従って生きる信仰を頂いたのである。信仰の創始者・キリストは、系図としてはヤコブから直系のユダの家系、ヨセフとマリヤの子としてこの世界にお生まれになった(マタイ1・1 ~ 17、ルカ3・23 ~ 38)。そして、信仰は使徒たちを始めとして、ユダヤ人の弟子たちに継承され、その後、異邦人を含め全世界に救いを伝えなければならないと主がおっしゃった意味を、弟子たちは悟らされたのである。

 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカの福音書 二章三十一節~三十二節)

 ユダヤ人の定義は実は極めて困難であるが、詳細はともかくとして一応、二〇一〇年、全世界に一三四〇万人以上が存在し、その内イスラエルに五三〇万人、アメリカに五二八万人、その他二十七ヶ国以上に二八〇万人が居住している。世界人口は二〇一一年現在、七十億人を数えるので、ユダヤ人は僅か〇・一九%に過ぎず、人数的には今以て少数民族である(申命記7・6, 7、ミカ5・2)。そして、それ以外、すなわち世界人口の大多数は全員異邦人である。

ユダヤ教vsキリスト教

 イエス・キリストは世界・人類の始まりが記述されている創世記やモーセ五書はもとより、旧約聖書の書物をしばしば引用してお話をされ、旧約聖書はご自身について書かれているのだとおっしゃっている(ルカ24・25 ~ 27, 44 ~ 47)。そして、キリストが福音をこの世にもたらされた時、契約を託された民としての自負を持っていたユダヤ人は、実はメシアの来臨をただひたすらに待っていたのである。大多数のユダヤ人、特に熱心なユダヤ教の信者は、イエスがその待ち焦がれていたメシアであることを不幸にして認めようとしなかったのである。ヨハネやペテロなど使徒たちもユダヤ教の信仰を持っており、聖書(旧約聖書)に精通していた民であった。わけても異邦人に福音を伝える使命を与えられた使徒パウロは、ユダヤ教のラビであったので旧約聖書に精通していたのであった。         

 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネの福音書五章三十九)

hazah4_4.jpeg 二〇一〇年現在、クリスチャンは二十億人強、人口の約二十九パーセントである。その中には数は多くはないが、イエス様こそが彼らの待っていたキリストだったと気付いたユダヤ人もいる(メシアニックジューと呼ぶ)が、クリスチャンの大多数が異邦人であるのは事実である。キリストご自身と使徒たちや弟子たち(全てユダヤ人)が福音を宣べ伝えたエルサレム周辺地域においてキリスト信仰が発祥し根付いたのであり、ヨーロッパは地理的に近接した地続きである地の利を得て、この地域に住む異邦人に福音が広がっていった。その後、イギリスやスペインなどヨーロッパ諸国から、信仰を携えてアメリカ大陸に移住した。したがって彼らは何世代にも亘って旧約聖書も含めて聖書に親しみ、創造主を仰ぎ、キリスト信仰を継承してきたのである。すなわち異邦人ではあるが、土壌のいばらや石は相当取り除かれ耕されており、一般の言葉さえも「God(聖書の唯一神・創造主)」と「gods(偶像神)」と、明確に区別されている。

ピカピカの異邦人に必要なこと

 キリスト信仰に関して日本は歴史的に非常な後れを取った。日本に福音が伝わったのは十六世紀半ば、殺傷のための強烈な武器・鉄砲の伝来と同時期である。当時日本には八百万の神々を拝む土着の信仰が深く根を張っており、神道、儒教、仏教もそれぞれ強い影響力を持って人々を名実共に束縛していた。明治維新によってキリスト教禁止が解かれたというのは名目だけであって、実は、第二次大戦の終わるまで檀家制度、隣組制度は人々をがんじがらめに縛り上げていた。日本国の始まりから余りにも長く続いた圧政は人々の心の自由を奪ってしまい、いばらがいばらであるという認識を生じる隙間さえ存在しなかったのである。

 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、......エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、......ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。(マタイの福音書 一章一節~十六節)

 新約聖書の始めに、この見知らぬ片仮名が延々と連なっているのは、初めて聖書を開く人には全く訳が分からず、読もうという気持ちをくじけさせるのに充分すぎるほどである。骨の髄まで異邦人として生きてきた日本人は、知的にも、精神的にも、唯一の神、創造主を理解するための足掛かりがない。イエス・キリストと言ってもどういう御方であるのか、釈迦と同列視している人や、まるきり誤解している人々が圧倒的に多いのが日本人である。ギデオン協会から新約聖書の贈呈を受けて、信仰を持ったまさに信じられない恵みを頂いた人もいるが、いつまで経っても創造主が解らず、創造された者という確信・喜びが持てず、罪が解らない状態に置かれている人々がかなり多いのは嘆かわしいことである。

hazah4_5.jpeg イラストのように、いばらがところ構わず我が物顔にはびこっている日本の土壌であることに目をつむって、汚染された種を一生懸命撒いているので、折角日本に伝えられた福音も、鳥に食べられ、折角出た芽も焼けて枯れてしまった(マタイ13:3~ 8、マルコ4:1 ~ 9、4:13 ~ 19)。世の流れに逆らうと手ひどい目に合うので、それは避けたいという逃げ腰は福音を汚染し、腐らせてしまう。伝道を熱心に行う人々が、進化論を否定するのは時代遅れであるとか、福音宣教にはマイナスであるとか宣伝する。罪を語ると人々は逃げていくので、道徳的な問題だけ語る伝道方法が採用されたりして、福音の本質を避けて通る。主の創造をねじ曲げて六日間の創造は嘘だと言ったり、進化論の味付けをしたり、様々な工夫を凝らして、歪んだ福音を述べ伝えているのである。異邦人であるガラテヤの人々もまた、他の福音を宣伝する人々に惑わされたので、パウロは警告を発したのである(ガラテヤ1:6 ~ 9)

 自分がどこから来たのか、アダムの末としてどのような者であるのか、そのためにこそキリストの十字架が必要だったのだと、腹の底まで染み渡るためには、心の隅々にまで巣くっている夥しいいばら、転がっている石や岩、ヘドロのようにこびり付いている垢をまずしっかり掃除しなければならない。その荒れ果てた土地に汚染された種を撒き散らして、日本の土壌はますます救いがたい荒れ野になっていくのを食い止めなければならない。


このシリーズは、マルコーシュ・パブリケーションの発行するキリスト教月刊誌「ハーザー」で2014年2月から連載した内容を転載したものです。