7.「進化論」、実は「進化仮説」

創世記一章三十一節、二章一節、三節

神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。(新改訳)

進化という言葉

 日本人は「進化」という言葉が大好きで、何でも「進化」すると言うのがどうやら「かっこいい」と思っているらしい気配があることを三月号で書いた。ラーメンが進化しても、町に溢れている様々な物が改良されて、それを進化と言ってもそのこと自体は一向に構わない。しかし、そのために【進化】が日本人の体臭として染み込んでしまったことが大問題なのである。

hazah_7_1.jpg マスメディアや巷で日常生活の中に入り込んできた「進化」という言葉が、いつの間にか、初めに使われた生物進化の意味に逆輸入されて定着してしまった。すなわち、生物が秩序の低いものから偶然に高い次元のものになり、自然淘汰、弱肉強食の思想がジワジワと押し寄せてきて、ねっとりと社会にまつわりついてしまった。こうして、生物の進化は科学的に証明された事実であるという認識が社会常識として受け容れられてしまった。

 進化を裏付ける証拠があるのだと、数多くの書物で堂々と述べ立てられているのは事実である。ウィキピディアでも「進化は実証の難しい現象であるが、生物学のあらゆる分野から進化を裏付ける証拠が提出されている」と述べている。しかしながら、「進化論・進化仮説」で言われている生物の進化を裏付ける証拠は全く無いのである。ある小さな一部分の変異を捉えて進化というなら、それは科学ではない。

多種多様な進化理論

hazah_7_2.jpg チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版してから一五五年経ち、その長い年月の間、多くの人々が多様で無数の生物を観察し、学び、自分の主張・考えを盛り込んだ独自の様々な、そして詳細な思想を盛り込んだ新しい「進化仮説・進化論」を発表してきた。
 時代を経るにつれ、そして数多くの人々がこの学問分野に次々と参入するにつれ、それぞれの学説は微に入り細に入りして難解な概念が組み込まれるようになって、この分野の専門家でなくては理解出来ないものになってきた。これら様々な学説・主張がまとめられて今に至り、現代の進化論は、それらの様々な現象を説明し、予測する理論の総称であるという見方もされているようである。
 それら学問分野の細部の詳細に関して、学問的な関心から推測され考察がされていても、一つの細胞に始まって人類にまで到達したという「進化論体系」という大きな根幹・土台・流れが科学的に全く証明されていないだけではなく、実は土台は完全に崩れてしまっており、その上に進化論という城は建つはずはないのである。

 にもかかわらず、いつの間にか「科学」という仮面を被り、「科学」と言い換えられてしまったが、その本質は「何らかの宗教的なもの・信仰」であるものが、日本における伝道の大きな障害の一つになっていると考えられる。すなわち、日本人が進化論を簡単に受容したのは、実は、ある種の伝統的な宗教的世界観が表面化したに過ぎないだろうと思われる。

進化論・進化仮説の大前提

 進化論・進化仮説または進化思想について学問的な細部に亘る議論は、その本質を大幅に逸れた議論であり、重要なことでは無い。ここで進化論の背骨、進化論の本質、進化論を信じるために支柱となっているもの、大前提について今一度確認しておくことにする。

一 進化論の大前提の最初に上げられることは、実は無神論である。「偶然に」生じたことであって、超自然な全知全能の方の「愛と義」の意思によって創造されたという哲学を根底から否定する思想である。(有神進化論という不思議な説があるが、これについては、後日説明する。)

hazah_7_3_2.jpg二 宇宙は永劫の過去から常に存在しており始まりが無かった。これは、天文学・物理学の常識であった。ところが、科学の進歩につれて、宇宙に始まりがあったという科学的証拠が数多く発見され、宇宙に始まりがあったことを受け容れなければならなくなった。

三 宇宙は大昔から常に存在していたという説(二)を支えていたのが斉一説である。宇宙全体、地球全体に影響を及ぼすような大激変は起こらず、常に同じ速度で、同じ方向への変化を緩やかに辿ってきたという説である。この説は、宇宙に始まりがあったことを受け容れた後も、大激変は始まりの時だけであり、その後には大激変は無かったとする考えは継承されている。「現在は過去を語る」という思想は受け継がれたのである。

四 宇宙に始まりがあったということを認めた後には、宇宙の始まりは、①いつ、②どのようにして起こったのか、ということに人々の関心は集まった。その一つの説であるビッグ・バン説では、約百三十億年前に、宇宙が自然発生したと考え、今以てかなり有力な説のようである。一点に集約された大きなエネルギーが大爆発を起こし、その後、火の塊が時間の経過と共に冷却し、そして偶然に、自然に秩序を確立した。(図①)

五 約九十億年の歳月の間に無機物から有機物が偶然に生じ、小さな有機物は順次複雑なもの・高次のものになり、遂にはタンパク質のような生理機能・生化学機能を発揮するものにまで進化した。六 約四~五十億年前に、遂に一つの小さな生命体、単細胞生物が偶然に、自然発生した。(図②)

 これらの前提を簡潔にまとめると、①無神論、②宇宙には始まりが無かった、③全ては偶然の積み重なりである、④想像を絶する悠久の時間の中で起こった、⑤大激変は起こっていない(斉一説)、⑥化学進化によって、遂に最初の細胞、生命が自然発生した。

日本の学校教育や社会で教えられている進化論

 日本の学校教育では、進化論は正しい科学であり、進化はすでに証明された事実であると教えている。すなわち、追跡調査できない悠久の時間の経過の中で、偶然の積み重なりによって、細胞は順次新たな秩序を獲得して、より高度の生命体に変化していった。すなわち、複雑な魚類やは虫類、そしてほ乳類から人類にまで進化したという仮説である。

通常、進化論の詳細について教えられることはなく、まして根本的な間違いが語られることはない。そして、典型的な「進化の証拠」とされているいくつかの例が教えられる。その有名な例は、鳥の先祖「始祖鳥」、ウマの先祖「ヒラコテリウム」、そして「人の進化図」など、数々の例が報告されている。今後これらについて、順番に検証することにする。
 また、動物の化石の一部が新しく発見される度に「進化の証拠」として大々的にマスコミで宣伝される状況は相も変わらず続いており、しかも、仮に間違いが訂正されることがあっても、新聞の片隅に小さく書かれるに過ぎない。

進化の系統樹

 複雑な動植物が現在地上で繁栄している事実を説明するために、最初の単細胞生物が自然発生したという仮定に立ち、その単細胞から進化して複雑な秩序を獲得して、遂に人にまで進化したという仮説を打ち立てたのである。どのような道筋を辿ったかは不明であっても、最終的に複雑で高次な秩序を確保したと考える以外に進化仮説には逃げ道は無いのである。

hazah_7_4.jpg 例えば左図のように、単細胞から高等な植物に進化し、小さな動物に進化し、昆虫に、は虫類に、哺乳類に、そして遂に人間に進化したと一直線で描くと、実際に観察される事実と矛盾すると異議申し立てがある。

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 それで、例えば右図のように、植物と動物の進化の道筋は異なっているとして枝分かれを考える。また、海の動物と陸の動物は別の道筋を辿ったはずだから枝分かれをし、昆虫と哺乳類とは別の進化の道筋を辿ったとして枝分かれした。こうして進化の道筋は大樹のように枝分かれをしたとする系統樹が考えだされた。ところが進化の系統樹を描くと、その道筋に矛盾する事実が次々と発見されるので、その度に新たな枝分かれを考えたり、道筋変更を余儀なくされて枝の付け替えをしたりして訳が分からないほど複雑な系統樹が発表されている。

hazah_7_6.jpg こうして、例えば左図のように、生物は共通の祖先から三つの分野に進化し、多岐多様な生物に進化したとする進化図が描かれている。バクテリアと古細菌は細胞の中に核を持たない原始的な菌である。細胞の中に核を持つ真核生物の中に植物や多くの菌類も入っており、私たちに身近な動物は、一番右下に後生生物として分類されている。すなわち、動物は、まして人は生物の中で微々たる存在であるという思想にがっちりと裏打ちされた進化図なのである。

 様々なデーターを組み合わせてこのような「我が城」を築き上げても、城壁の石を積み上げた途端に崩れてしまう進化の系統樹である。美術的には美しい図であるが、科学の世界では証拠に支えられていなければどんな意味も持たない。「もしかしたら過去に起こったかも知れない」という仮定を立証しようとするのが進化という仮説であるが、そもそも歴史は科学の手法では決して証拠は見つからないのである。

詩篇 一〇四篇二四~二五節

 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。同じように、海も大きく豊かで、その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。(新共同訳)

 


このシリーズは、マルコーシュ・パブリケーションの発行するキリスト教月刊誌「ハーザー」で2014年2月から連載した内容を転載したものです