18.完全無欠に創造された地球・人

創世記一章一節、三十一節、二章二節、三節
 初めに、神が天と地を創造した。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

[Ⅰ] 序:私たちはどこから来たのだろう?

 人の心は一体どのようにして異常発酵して、どうしても聖書だけは認めたくない歪んだ心へと変質したのだろう?

 進化論という出口のない迷路にはまり込んで、呪縛に縛り上げられ喘いでいる人類の姿を、このシリーズにおいて、さまざまな角度から観察し、論理を展開してきた。自分のいのちを訳の分からない汚らわしい存在として貶める罠の中でもがき苦しむのではなく、自分を愛おしむ心を見つめてみよう。黒い物を黒いと言い、茶色い物を茶色いと言い、白い物を白いと言う真っ直ぐな気持ちに立ち帰って人間を見直してみよう。

 今ここに、地球があり、そこでいのちが育まれている。自分を「サルのようなものの子孫?」と思う心の片隅で、「でもね」と曲がりなりにも自分を尊いと思い、いのちを愛おしむ心を失ってはいない。その尊く愛おしいいのちの源を素直な心で訪ね求めてみよう。

[Ⅱ] 初めに 神が

(一) 初めに
hazah_18_1.jpg ウジ虫やボウフラのような大きな生物が自然に湧いてこないことは、今や誰にでも理解されている。しかし、目に見えないダニやまして細菌類に至っては、頭で理解していても感覚的に「自然に湧いた?」ように捉えてしまいがちである。小さな人間の小さな頭の中の世界では、手に触れない物、目に見えない物を真に理解することは並大抵ではない。

 聖書の冒頭に掲げられている創造主の大宣言は、人間の頭脳で理解出来る範囲からはみ出した世界であると筆者は思う。宇宙の「初め」とは一体どういうものだろう? 大学者たちが考えて、考えて、解らなかったのである。そして、宇宙には初めはなかったと結論した。永劫の過去から「ずぅーっと」存在していたという「定常宇宙説」が、天文学者たちの常識であったのも頷ける。

 この常識が同じ「自然科学」の証拠によって覆され、宇宙には初めがあったことを認めなければならなくなった学者の苦悩が綴られている。「だれが宇宙を創ったか」ロバート・ジャストロウ著、講談社(1992)やっとこの大変な峠を越えた学者は、次の難問にぶつかった。「誰が」「いつ」「どのようにして」始まったのかということである。こうして考えられたのがビッグバン説で、このことはこのハーザーの二〇一四年九月号で記載した。また、筆者のホームページの「天地万物の創造」の項では、さらに詳細に論じている。

 「初め」とはどんなものであるかは解らなくても、科学的にも「初め」があったという結論へと主によって到達させていただいたのである。しかし、ビッグバン説を考えても、あるいは他の様々な説を考えても、「初め」の前は相変わらず人間の科学の限界を超えた世界である。

 「初め」があるということは、「初め」の前の時間の無い世界を考えることになるが、これは自然科学の領域ではない。すなわち、人間の頭脳が扱うことが出来る範囲を逸脱しているのである。科学者は「原因があって結果が生じるという、普遍的な因果関係を感じている」(アインシュタイン)ので、すべての結果には原因があると考えると、最初の原因を想定しがたいのである。必ずその前の原因、又その前の原因があるはずだからである。いつ、どのようにして、誰が「始めた」のか?そして、その「始まり」の前には何があったのか?「始まりの前」の、その前には何があったのか?非常に大切な基本的な疑問であるのに、果てしもなく続く疑問の先は茫漠とした暗闇である。偶然にという進化仮説に捉えられている限り、このように永遠に暗闇の中に置き去りにされてしまう。

(二) 神・ヤハウェ・唯一神・主
 超自然な全知全能の方、創造主である唯一のお方を知らない日本人には、この方を表す言葉さえ無いのであるから聖書の神を理解出来るはずがない。「ヤーウェ、エロヒム」を翻訳するときに、いささかの議論はあったようであるが、結局異なった概念を包含した「似て非なる言葉・神」を当ててしまった。そのために益々混乱を招いてしまったが、さりとて良い言葉が見つからないようである。「天主」という言葉があるが、内容的に、また漢字や耳への響きも、天におられる「我が主」として礼拝するに相応しい呼び名であると、筆者は個人的には考えている。

 このシリーズ3から7まで日本人の神観・拝む対象について検討を加えた。木くずでも石ころでも何でも拝んでしまう日本人には、全能の主を理解することが出来ない。天地万物を創造なさった神は、創造主であるという一面のみのお方ではない。それは偉大なことであるが、創造なさった後、「はい、サヨナラ」ではないのである。今も生きて、全世界を統治しておられ、私たちに無限の愛を注いで護っていて下さるのである。

*創造主・全地の支配者
聖書の神(ヤーウェ・エロヒム・神・上帝)は、アドナイ・主である。日本人は「主」という言葉を様々に使い分けるので理解しにくいかも知れない。夫を主人と言い、妻をしばしば主婦と言い(この頃、主人という言葉、主婦という言葉に抵抗を覚えて使わない人が増えているが)、芝居の中心人物を主役と言い、世帯主、事業主、建築主等々、様々な「主」がある。しかし、アドナイは私たちが仰ぎ見る方、絶対なる方、議論抜きに従うべき方ということであり、主という言葉は本来、非常に重い意味を持っている。従うということに抵抗を覚える人は大勢いるが、絶対なる方の判断は最高・最善なのであり、それ以外の判断は遙かに及ばないのである。

 わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。(イザヤ書四五:21)

*エル・シャダイ(全能の神・祝福する神)

hazah_18_2.jpg 気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、【主】がよいと見、正しいと見られることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。(申命記十二・28)

 愛の神・慈悲深い神であり、聖書には旧約、新約を通してその慈悲に溢れた姿が描かれている。一部のキリスト教会では、旧約の神は恐い神、新約のイエス様は優しい神ととんでもない間違った噂話が飛び交っていることがあるが、同じ神であり創世記にイエス・キリストがおられ、旧約と新約で異なるはずはない。旧約聖書の神がどんなに大きな慈悲を示されたか、士師記にも明らかに書かれている。イスラエルの民は奔放な生き様をして主に背き続けたが、主は忍耐を持ってじっと見守っておられた。そしてイスラエルの民が進退窮まった状態になる度に主に泣きついて助けを求め、それに対して主は何度も何度もイスラエルに救いの手を差し伸べられた。   
 
 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように(エペソ書 一・19)

*正義の神・救い主
 全能の神は正義の神であり、したがって正しい裁きをされるのである。そして、信じて頼る人を護り、祝福を与える神でもある。
              
 私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。神は正しい審判者、日々、怒る神。(詩篇七・10, 11)

hazah_18_3.jpg*愛の神・慈悲深い神・恵みの神
 私たちには理解出来ない深い愛を示される方であり、最善をなさる方である。主の契約を預けられた信仰の父アブラハムは大きな過ちをした結果、ハガルを荒野に追いやってしまった。そのハガル親子にも主は目を向けておられ、大きな憐れみを掛けられた。

 神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます(第一ヨハネ 四・16)

 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。(詩篇一二一・3, 5, 7)

[Ⅲ] 天と地を創造した

 「天、すなわち全宇宙空間の広がり」と、「地、すなわち質量・物質・エネルギー」を、「初めに、すなわち時間という有限の世界に」呼び出し、存在させられたことを、全知全能の創造主は聖書の冒頭で明確に宣言されたのである。

 現在、主が定められた様々な自然法則・・・物理学法則・物理化学法則・化学法則・生物学的法則の中で、その法則に従って自然界は機能し、自然も植物も動物も、そして人類も存在している。

 主の創造を信じている人でさえ、しばしば逆のことを考えて、これら諸法則は初めからあったと、無意識下に定常宇宙説の立場に立って考える。そして、その法則に従って創造主が創造されたのだと、深い誤解の中に閉じ込められていることが多い。しかし、創造主は「無」から全てを始められた。「無」とはどういうものであるのか、私たち人間には解らない。しかし、創造主が創造に着手された時には、諸法則はなかった。創造主が諸法則を制定して、無から全てを創造されたのである。
 
 主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。(詩篇三十三・6)

 創造主のみが無限で永遠の存在であり、全知全能なのである。

 ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。(エレミヤ書三十二・17)

[Ⅳ] 結語

 このようにすべてを超越した創造主を、人間が充分に理解することは不可能だが、心の奥深いところで悟ることは出来るのである。

 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:3)

 


このシリーズは、マルコーシュ・パブリケーションの発行するキリスト教月刊誌「ハーザー」で2014年2月から連載した内容を転載したものです