19.初めに、神が創造した

創世記一章一節 初めに、神が天と地を創造した。

[Ⅰ] 序

現在ここに、地球があり、そこで植物が繁茂し、いのちが育まれている。イラストにふざけて描いているように「サルのようなものの子孫?」だと自分を思う、情けない人生観を叩き込まれた結果、いのちを喜んで満喫する祝福を人類は受け損なってしまっている。

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[Ⅱ]  天地万物の創造

一 聖書冒頭の大宣言・無から有の創造
全知全能の創造主が、無から有を、全宇宙を「造られた」ことが、聖書の冒頭に宣言されている。

主は「初めに」、無から有[天と地]を呼び出し、万物を存在に至らせられた。
人間は「無」を理解出来ない。何も無いとはどういうことなのか? 眼に見えないので何も無いと思っていた空間には、実は空気、すなわち窒素・酸素などかなりの種類のガスが存在していると、現在、人々は一応納得している。そして、あろう事か、この空間には眼には見えない微生物が浮遊しているという。

理解出来なくても、とにかく、「無」という状態から、世界は「始まった」!

人間は無を理解出来ないのと同様に、時がない世界を理解しようとしても出来ないので、この「初め」を理解出来ない。主が時を創造されたのである。創造主は時間の制約を受けない方であるが、人間は時間の制約の中で存在しうるのである。

二 天と地の創造
hazah_19_2.jpg主は初めに、「天、すなわち全宇宙空間の広がり」と、「地、すなわち質量・物質(エネルギー)」を創造された。創造にあたって、主は全自然法則・・・物理学法則・物理化学法則・化学法則・生物学的法則をまず設定なさった。そして、現在、主が定められたこの様々な自然法則の中に自然界は存在しており、自然も植物も動物も、そして人類もこの法則の支配下に存在が可能になっている。支配されていると表現すると途端に反発が予想されるが、しかし、手に持っているものを離すと大きいものも小さいものも同じ速度で落ちることは、ピサの斜塔の逸話を持ち出すまでもなく誰でも知っている物理法則である。

耳に到達した音がどのようにして聞こえるか、眼はどのようにして物体の像を結ぶか、そして、生命は生命からという重要な生物学法則も、全て最初に主が設定なさった法則である。これらの諸法則の下に全てが創造され、そしてこれら諸法則に従って、すなわちこれらの法則に護られて全ての存在が可能になっているのである。

主の創造を受け容れている人でさえ、そして、知識としては諸法則を主が定められたのだと「知って」いても、身に付いていないので、これら諸法則は初めからあったという無意識下の思索の中で、さまざまなことを考える。このような真逆の深い混迷の固い殻を突き破って、聖書に親しむ必要があるだろう。

【主】のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。(詩篇三三・6)

三 宇宙は空間・物質(エネルギー)・時間の連続体
物理学的法則を定められた主は時を創造して、有限の世界を設定なさったのである。こうして創造された宇宙では、空間と物質と時間とはそれぞれが単独で存在することはなく連続体であり、一体になって存在しているのである。

四 聖書は宇宙・人類の歴史書
hazah_19_3.5.jpg聖書はしばしば、歴史・律法・詩歌等々と分類されるが、実は聖書全体が歴史書なのである。この聖書の権威のもとに十字架の福音があるのであり、新約聖書で突如としてイエス・キリストがお生まれになったわけではない。まずは、宇宙・地球・人の創造があり、その後の人類史の始まりが詳細に創世記に記されている。
すなわち、イラストに描いたように私たち人類を永遠の滅びから救って下さるイエス・キリストの福音、キリスト信仰は、創世記の土台の上にしっかり支えられて始めて安定して留まっているのである。

聖書に明言されている全知全能の創造主は無限で永遠の存在であり、全世界を創り、人類の歩みを導いて来られ、最後に福音の救いをもご用意下さったのである。その原点が創世紀にあるのは明々白々の事実である。

[Ⅲ] 創世記一・2の解釈

一 地は「混沌、茫漠、形なく」?
創世紀一章二節
新改訳  地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
新共同訳  地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
口語訳 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

創世記一・2は、その原語であるヘブル語が難解であるようで、その解釈は諸説あり、「間隙説」が提唱された理由にもなったが、「間隙説」については後の号で取り上げる予定である。創一・2の解釈について、クリエーション・リサーチ顧問の野口 誠先生が、以下の文書に詳細に解説しておられる。

CRJ専門的学び用No.5 2015年2月
「その地の状態とその期間 ―創世記一・2a の釈義的考察―」
CRJニュースレター2014.6-7, No.98
「地は混沌であったか ―創世記一・2の解釈―」

ニュースレターの記事の一部を、以下に転記させていただく。

「創世記一・2の地の有様は、神が地を創造された直後の地の状態であるとともに、これから神の霊がまもなく人のすみか建設に着手しようと構えている直前の地の状態で、その地をおおう大水のおもては、そこには障害となるものは何ひとつない整然としたもの(トフー・ワ・ヴォフ)であったのである。その大水のおもては、いわばこれからその上に絵が描かれようとしている直前の空白のキャンパスか、または建築直前のきれいに整地された土地のようなものである。その大水のおもては整然としていて、混沌という概念からは程遠かったと思われる。」

  詳細に学びたい方は、上記の文書を読まれることをお薦めする。

二 水の上を漂われた御霊
hazah_19_1.jpg創造主訳で、「雌鳥がその翼を広げてひなをはぐくんでいるかのように、その上を覆っていた。」と翻訳されているように、静寂の中を主の御霊がゆったりと流れるように漂っておられる情景が記されている。
六日間の天地万物の創造に関しては、実際に何事が、どのようにして起こったのか、私たち被造物にはよく解らない。特に一章一節、二節は非常に難解で、そこにいなかった人間には、主がヨブにおっしゃった通り、解るはずはない。

わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。(ヨブ記 三八・4)

エネルギーの源である主が、どのようになさったのか解らなくても、主は無限のエネルギーを生み出し、それだけではなく、御霊の静かで驚異的な働きにより最高の秩序を整えられたのである。創造の記事は聖書に様々に記載されているが、それらはいずれも静かな雰囲気を伝えている。

[Ⅳ] 光が創造された

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 (創世記一・3)

一 光とは?
光が創造されるまでは、真に闇の世界であった。この時点では太陽は存在していない。真の闇である。そして、主の一声で光が造られた。地球上で生きている私たちは、この光を太陽だと錯覚することがあるが、太陽でないことは聖書の記述に明らかである。太陽は第四日に創造された。

hazah_19_3.jpg太陽は光源であって光の本質ではない。太陽は莫大なエネルギーを持っている物体であり、そのエネルギーは熱のかたちになって、また光のかたちになって放出される。しかし、かたちの異なるエネルギー、熱エネルギーと光エネルギーは共に太陽から発せられるが、熱が太陽そのものではないのと同様に、光も太陽ではない。そういう意味では、電球と本質的には何の差もなく何らかのかたちで備えられるエネルギーを、光のエネルギーとして放出している光源であって、光そのものではない。雨戸や扉など、何かの隙間から光が漏れてくる場合に、光の道筋が明らかに見えることによって光だと認識できるが、光とはそのようなものなのである。

酸素や窒素、炭酸ガス等の気体は、眼には見えないが、低温になると例えば、炭酸ガスはドライアイスという固体になって眼に見えることは一般の人々も知っている。一方、光は確かに眼で見えるが、手で触れることが出来ないという点で、理解しにくいものである。光は物理学的に波であり粒子であると説明されている実質であるが、そのように説明されても一向に「解った」という気にはならないかもしれない。

二 夕と朝で区切られた一日

神はその光をよしと見られた。夕があり、朝があった。第一日 (創世紀一・4、5)

創造の各工程が終了するごとに、主は点検をなさって、そしてこのように「よし」と確認しておられる。全て、主が企画なさった通りに創造の御業が完璧に行われたことの証明である。

創造の一日は、今の一日ではないという暴論が、今もなお活き活きと存在しているのは不思議である。地球はすでに自転を始めており、夕があり朝があるという時の刻みを一日と設定なさったのは主である。この地球の自転の一日が、今の一日であることは自明のことであり、それ以外の時を聖書は教えてはいない(参照:出エジプト二十:11)。

[Ⅴ] 結語

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル書十一・3)

 


このシリーズは、マルコーシュ・パブリケーションの発行するキリスト教月刊誌「ハーザー」で2014年2月から連載した内容を転載したものです