34.神のかたちを頂いた

 

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記一章二十六~二十八節、口語訳)

 

 [Ⅰ]

神のみ姿を映された尊い存在として人はこの世に命を頂いた。そして、地を治め、動物たちを治める任務を与えられた。しかし、神よりも自分の方が正しいと主張して、神に反逆し続けたなれの果ての人類の姿、世界中が憎しみと戦争で荒れ狂っている姿、ボロボロになった地球の姿を、人類は今、なすすべもなく呆然と見つめている。神のお姿がすっかり見えなくなり、頂いた美しい姿も分からなくなっている。

 しかしながら、私たちが創られた見事に完全な、最初の姿がどのようなものであったかを再確認し、イエス・キリストを信じる信仰によって新天新地に新しい体を頂く約束に胸膨らませて、この「創造と福音」の連載を締めくくりたいと思う。

 [Ⅱ] 主が人に与えられた任務

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アダムとエバは終日のらりくらりとエデンの園で遊び暮らしていれば良いように創造されたと錯覚している人々もいるようであるが、神の姿を頂いた人間がそのような日々を楽しむことは到底出来ないだろう。適切な労働、責任ある仕事は人にとって喜びである。二人にも素晴らしい任務が与えられたのである。

 (一)動物に名前を付ける、管理する

 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。(創二・19)

 動物を命名するという任務をアダムに与えられたのは、今後、動物たちを管理監督させるための教育であり、アダムはよく学んだのだろう。主がアダムに全幅の信頼を置いて、名誉ある任務を委ねられたのである。そして、アダムは主の期待に見事に応え、彼が付ける名は、適切なものだったのである。

(二) エデンの園を耕し、管理する

 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(創二・15)

 彼らはエデンの園を耕し、管理するという、楽しく有意義な任務を与えられた。労働は苦しいものという常識が出来上がってしまっている現代社会では通用しにくい考えかも知れない。しかし、現代でも様々な職種の人々がその仕事を楽しんでいるし、農業も楽しい作業の一つであるはずである。現在は、様々な種類の災害があり、一定の収穫を得られず経済的な不安があるので、労働は苦しいものという感覚しか持てないようになっている。 

[Ⅲ]人に授けられた神のかたち

慈愛そのものである神は、ご自身の姿を映して人をお造りになった。その後、罪が入り、創られた美しい姿は失われて延々と約六千年、罪が深まりながら生きてきた人類は、頂いた姿がどのようであったかという実態が全く分からなくなっている。

人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩八・5)

御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。(ローマ八・29)

 イエス様はユダヤ人たちに、聖書(旧約)はご自身のことを描いているのだとおっしゃった。すなわち旧約・新約問わず聖書全巻に創造主である神・キリストのお姿が描かれているのである。

 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ五・39)

 私たちは聖書を読んで創造主のお姿を尋ね求めるが、そのお姿こそ罪が極まって見失ってしまった私たちの始祖、アダムが頂いた本質なのである。罪がなければ私たちが引き継いできたはずの姿であり、罪を背負った後も愛の神の信じられない慈愛によって、キリストを信じる信仰だけで、将来戻っていくことのできる姿なのである。その姿を少し探し求めてみよう。

 (一) 知識と知恵の源

神様は全知全能の方で知識と知恵の源であり、旧約・新約両聖書にそのことが記述されている。(ヨブ三七・16)

神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ十一・33)

 主の知識と知恵の広さ・深さは果てしもないが、主は惜しみなく人に知識を与え、知恵を注ぎ込まれ、今なお与え続けて下さっているのである。それを受け取り、学び、考える人の能力は想像を絶するほど高い。主から与えられる知識や知恵を人類は当たり前のこととして駆使しているが、決して当たり前ではない。そのような活動をするための機能は主が脳に備えて下さったのである。

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主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる。(箴言二・6)

昨今、科学・医学・生理学の研究が進み、脳のどの部分がどの機能に対応しているのか、どのように情報が伝達されるのか、何にどのように応答し、活性化するのかなど、少しずつではあるけれども解明されつつある。イラストに示しているように聴覚を司る箇所、視覚を司る箇所、運動を司る箇所、そして言語を司る箇所は二カ所が特定されて研究は進んでいる。

 人はまた、抽象的に考える能力、科学的・哲学的思考力、豊かな創造力も与えられている。また、行き当たりばったりの好き勝手な自由意志ではなく、考え、制御した上で決断するという高度の自由意志を与えられている。動物に与えられている自由意志とは全く次元が異なり、同一視することは出来ない。

 (二) 時・永遠・宇宙空間を思う

創造主は「無」から始められ、天地万物、すべてを創造なさった。それは、「空間」や「時間」というものを創造なさったということでもある。人間には「無」は理解を超えたことであり、空間が無い、時間が無いということは、考えるだけ無駄な感じさえするかも知れない。しかし、人は時間を考え、永遠への思いを馳せ、宇宙空間を思う。主がこのような崇高な思いを人の心に与えられたのである。

昔の人々は昼も夜も天を仰ぎ見て、豊かな光を注ぐ太陽を造られた主を思い、きらきら輝く星を見て宇宙を遙か彼方まで広げられた創造主を慕ったのである。

人の心に永遠への思いを与えられた(伝道三・11)

ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。(エレミヤ三十二・17、新共同訳)

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十七世紀に至って、優秀な科学者ガリレオ・ガリレイは創造主を崇めて、神の作品を探求し続けた。古い科学を信奉する人々から地動説を攻撃された裁判だけが有名であるが、天文学者・物理学者として、天体観測に望遠鏡を導入して木星の四つの衛星を発見し、金星の満ち欠けや大きさの変化を発見するなど数々の優れた業績をガリレイは遺している。

 宇宙に思いを馳せた人類は、SFの世界に遊び心を見いだし、一八六五年ジュール・ヴェルヌが砲弾に乗って月へ行くという「月世界旅行」を発表した。その百年後、一九六六年、アメリカで「スタートレック」がテレビドラマとして発表され、数年後、爆発的な人気を博するに至った。当時アメリカにいた筆者は静かなファンになった。ストリーは地球上の人間の争い・戦争を、舞台を変えて宇宙的な脚色をしただけという見方の出来る側面もあった。しかし、人種・性別・出身の星・外観など、愚かな差別意識を一切否定する姿勢で描かれており、また様々な社会的問題、思索を興味深い視点から取り上げていて考えさせるものを提示していた。また、主人公三人、特に感情を極端に抑制し、理性的という設定のバルカン星人スポックと地球人との議論は面白く、楽しませてくれた。理路整然と話すスポックの英語は非常に分かりやすいのと対照的に、カーク船長が時々口の中でモゴモゴと言う短い冗談は聞き取るのに苦労した思い出がある。(写真は左スポック、右カーク、手前がエンタープライズ。Wikipedia)

(三) 他を顧みる心・良心・感謝

アダムが厳しい背信の罪を犯した後、罪は全人類に広がったのであるが(ローマ五・12)、それでもなお、神は与えた素晴らしい賜物を没収されなかった。現在、地球が滅びに向かっていることは誰の目にも明らかであろうし、動物も荒れ狂っており、地球を管理監督するという名誉ある任務を与えられた人類は、大失敗をし続けている。

 人間の社会の法律を破るほどではなくても、心の中に悲しみや憎しみが生き生きと住んでいたり、悪意が潜んでいたりして、それを追い出すことが出来ない人が大勢いる。他の人の親切を悪意で受け取ったり、意地悪な心や暴言を投げつけたり悪態をついたり人の不幸を喜んだりするのは、現代社会では一般的に見受けられるようである。しかし、悪い行いや悪い心の動きに対して、チクチクと責めを感じるのは、植え込まれた良心が無事に生きている証拠であり、与えられた賜物は神の一方的な憐れみにより人々の内に生き続けているのである。

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人を顧みる心も細々とではあっても何とか生き続けているので、弱い者への思いやりの行動が保たれている。それは、どこまでも神の憐れみによって保たれていることであり、良い行いが準備されているとは、どんなにありがたいことだろう!

 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ二・10)

 預言者エリヤが、全預言者が迫害により滅ぼされ自分も殺されようとしていると主に訴えた時に、主は悪辣な異教バアルに膝を屈めない信仰者をイスラエルの中に七千人残しておいたと言われたⅠ列王十九・18、ローマ十一・4-6。この乾ききった日本砂漠で宣教の実を結ばないので、筆者はしばしば嘆いて主に訴えるが、その度に主は、エリヤのことを思い出させ希望を与えて下さる。今の日本にも、主を信じる民は残っており、数を増し加えるよと力強く語りかけて下さるのである。

 (四) 完全・正義・聖である方

主のお姿はなかなか語り尽くせないので、御言葉を上げて完全・真実・正義・聖である主を崇めることにする。そして、永遠のいのちに至る道としてパウロがまとめているローマ書の一節を紹介する。

 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。(申命記三十二・4)

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ五・48)

われらの神、【主】をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、【主】は聖である。(詩九十九・9)

 罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。(ローマ六・22)

 (五) 神は愛であり、霊である

霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ四・24)(1ヨハネ四・16)

 

[Ⅳ] 結語

幾つもの基準、権威がある世界観の中で生まれ育ってきた日本人は、相対の世界に慣れ親しんできたので絶対を理解しない。唯一絶対である創造主がすべての基準であることを理解し難いのである。軍国主義を信奉していた日本人が、天皇の一声で一夜にして見事な変身を遂げた。マッカーサーが送り込んだ宣教師によって、人口の二倍を超える自称クリスチャンが生まれたという笑い話にもならない話であるが、実話であると伝えられている。

最初の罪の告白、洗礼の意味を余りにも軽く受け取って全く理解しないまま、「初めてである」と偽り、何度も何度も信仰告白をし、洗礼を複数回受けることにさえ、何の抵抗も覚えなかったようである。神は「唯一絶対」であり、「真理」であるという世界観は日本人には無縁であり、浸透しないので、イエス・キリストも、諸々の神々も、周囲にいる同じ罪人である数多くの権力者・権威者も渾然一体と数多くの権力者も渾然一体となった中に生きているのが日本人である。従うべき唯一のお方は、神である主、イエス・キリストだけという明確な信仰が、諸教会に活き活きと息づくことを祈る。主は私たちを愛し、大切に思い(イザヤ四十三・4)、信じる者のためには最善を成して下さるお方である。(ローマ八・28)

だからこそ、私たちの心がさまよい出ないように、アダムに呼びかけられたと同じように、いつも心を込めて私たちに呼びかけていて下さるのである。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記三章九節)