はじめに

[Ⅰ] 日本は宣教師の墓場か?

何故、日本で福音伝達が順調に進まないのか?hajimeni_1.jpgのサムネイル画像

法律的には信教の自由が保証されているにもかかわらず、福音伝達が一向に進まないことに、宣教に携わる人々は、宣教方針に疑問を持ったり、苛立ちを覚えたり、自信を失ったり、様々な思いに閉ざされて日本人への失望感を覚えたりしながら、戦後70年近い歳月が経った。

hajimeni_2.png

日本固有の信仰体系として整えられた神道は大和民族の伝統的な民俗信仰に基づいており、太陽を初めとす天体、また山や川、滝、樹木などの自然や、雷や嵐など自然現象を畏れ敬い、それらに八百万の神々を見いだすという自然発生的に芽生えた土着の宗教である。唯一神を崇める多くの西洋宗教とは異なり、基本的に多神教で、神々の数は今も全国で次々と増え続けており、日本全土を経巡って数えたら、本当に「八百万、8,000,000」に及ぶかも知れない。

六世紀半ば、このような風土に仏教が伝来し、様々な抵抗があったが結局日本の社会に受け容れられ浸透し、八百万の神々と共存する道を見つけ出した。また、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である儒教は紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持っているが、日本人の思想にも強く、深く根を下ろしている。


hajimeni_c1_3.pngさて、このような日本の風土にキリスト教が初めて伝えられたのは、ほとんど誰でも知っているザビエルの来訪による。カトリック教会の司祭、宣教師であったフランシスコ・ザビエルが、日本に初めてキリスト教を伝えた1549年、日本は室町時代末期、戦国時代前夜で、群雄割拠して日本中が乱れ狂っていた時代である。山口県の大道寺(日本最初の常設の教会堂)で一日に二度の説教を行い、約2カ月間の宣教で信徒数は約500人にものぼった。
様々な出来事があったが、結局、京都での宣教に躓いたザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考えた。日本全土を覆っている文化の基盤が、キリスト信仰を植えるための邪魔になっているとザビエルは判断したのである。しかし、中国への入国が果たせず、体力も衰え、精神的にも消耗して病になり、46歳で死去した。

以後、第二次大戦の敗戦を迎えるまで280年、強弱の度合いは異なってもキリスト教に対する迫害は続いた。敗戦後、日本への占領軍の方針により、キリスト教の宣教師が大勢送り込まれてきた。そして、その後すぐ、宣教師たちの本国への報告を総計すると、クリスチャン人口は日本の人口の1倍半とか2倍とかという「ふざけた」逸話がある。一人の受洗者が5回も6回も数えられているのである。ともあれ、実際には、洗礼を受けたか、信仰告白した人々は人口の10%~20%いただろうと、真面目に想定されている。
「お付き合いで」或いは「素晴らしい教えは良いと思って」或いは「八百万の神々の後にイエス様を付け加えてあげても良いと思って」「何となく」、その理由は色々であっただろうが、人間の社会では取り敢えずクリスチャンとして数えられた人々の人数は多かったのである。しかし、その人々はどこへ消えてしまったのだろうか。

現在、クリスチャン人口は1%以下であり、伝道者、宣教者の必死の努力にも拘わらず実質的なクリスチャンの人口比率は、もう長期間に亘り減少し続けていると報告されている。他の国に宣教に出かけた場合は、ほどほどの報いがあって、労苦が報われて喜びがあるのに、日本では「働いても、働いても、結果が見えない!」 外国人が生活するには苦労の多い日本で、素晴らしい福音を伝えようとして頑張っているのに、「ささやかな喜びさえ得られない」ということで、宣教師の間では「日本は宣教師の墓場」と囁かれているとか、とことん評判の悪い国であるようである。

[Ⅱ] 日本の福音宣教を妨げているもの

日本人の伝道者・宣教者もまた、同胞のために祈り、寝食を忘れて刻苦勉励しても実りが見られず、宣教の困難に苦しんでいる。「何故?」「どのようにしたら?」という問いに答えを得ようと、苦慮して、主の知恵を求めている。

ザビエルが日本人の心の奥底に潜んでいる八百万の神々に対する「信仰心」が福音宣教の妨げになっていることhajimeni_c1_4.png見抜いていたように、外国人が日本で福音を語るときに「神」という言葉を使うと間違った概念を与えることを認識している人も多い。(図は、AiG(「AnswersinGenesis、解答は創世記にあり」というアメリカの宣教団体)で描かれた。アメリカ人の日本人観である。

少なくとも二千年の長きに亘って培われてきた日本の土壌は、八百万の神々に対する信仰、唯一神である創造主を真っ向から否定する、進化思想一辺倒の信仰である。日本中の隅々にまで染み付いて、どんな強力な洗剤でも洗い流すことの出来ない「八百万の神々」は、日本の、日本人の体臭になってしまっている。どこか外から渡来した神々であっても、あるいは木切れや石ころを自分の手で削ったり掘ったりして造ったものであっても、狸やhajimeni_c1_5.png狐や蛇やミミズ、およそどんなものであっても、「神」ということに決めてしまえば拝む対象になってしまう。このような体臭を持った民族は、唯一で絶対である創造主だけを信じ、崇めることには極めて困難を覚える。
やっと信じると信仰告白しても、それは諸々の神々の最後尾にイエス・キリストを付け加えたに過ぎないのが日本の福音宣教の実りの実態であるとしたら、余りに悲しい。それは創造主である唯一の主・キリストではなく、八百万の神々と同列どころか、最後尾にくっつけた偶像に過ぎないのである。真の福音が伝わる用意が全く出来ていないのである。

「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。」(エレミヤ書4章3節)

[Ⅲ] 進化論は科学か、思想か、信仰か? 

唯一の創造主を宣教するには最悪の状態の日本の社会は、アダムから引き継いだ進化思想が体系化された進化論が勢いを増し加わる温床である。このようにして進化論が広まった日本の社会では、とても創造主を受け容れることが出来ない。福音宣教の最大の妨害になっているのである。

イエス・キリストも種を蒔く畑は耕されていなければならないと、はっきりおっしゃっている。上図のように、いばらが生え茂り、耕されていない荒れ地に如何に一生懸命種蒔きをしても、根を下ろし、芽を出すことは不可能なのである。

イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」(マタイの福音書13章3~9節)

八百万の神々と進化論が思う存分暴れ回って荒れ放題になった日本の社会は、福音の種を懸命に蒔いても、種は鳥に食べられてしまうか、日光に曝されて枯れてしまうか、根が腐ってしまうか、ともあれ無駄になってしまう。種を蒔く前に、棘を取り除き、畑を耕し、養分を与えて土地を種蒔きに適するように準備しなければならないのである。

「進化論は科学である」ということに、いつの間にか誰も疑いを差し挟まないで、社会の一般的な見解になってしまっている。このことから、次のような三段論法が横行している。
1)進化仮説・進化論は、(信仰とは関係のない)自然科学である。
2)進化論を追求することも、進化論の間違いを指摘するのも、科学に過ぎない。
3)信仰は科学ではないので、科学的な思考・論法は福音宣教のためには役に立たない。

hajimeni_c6.png進化論の追求は、確かにあたかも自然科学であるかの如き技術・手法を駆使するのは事実である。又、自然科学・生物学や考古学の勉強をした人々が携わるのも事実である。しかし、どのような技術・手法を駆使して研究を進めようとも、進化論研究は自然科学ではあり得ない。何故なら、自然科学的技術を使って現在を観察し、研究することは出来るが、過去を科学的に研究しているのではないのである。その観察事実に基づいて、想像を絶する遠い過去に下等な生物から順次上等の生物へと進化したことを証明することは単純に不可能だからである。進化論というのは、全然証明されないままに「科学的な『論』」として信じられているにすぎない思想・信仰なのである。強いて科学というならば、それは歴史科学或いは社会科学であって、自然科学的には決して証明することは出来ないのである。

福音宣教のためには堅く高い壁・妨害、自然科学であるかの如き仮面に騙されてはいけない。仮面を剥がして、仮面の下に隠されている本当の顔を直視して、進化仮説と向き合わなければならないのである。人々の救いのために邪魔である進化論という思想、信仰と向き合うことから日本の福音宣教は始まることを認識しなければならない。進化論を否定することは「ただの知的な学び、ただの科学に過ぎないので宣教のためには焦点がぼける」「かえって阻害的に働く」「聖書から目を逸らせる効果があってマイナスである」「宣教の足並みを乱す」などという誤った宣伝に踊らされてはならないだろう。

わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。(箴言3章21, 22節)

摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。わたしは分別であって、わたしには力がある。(箴言8章14節)

知性は主のものであり、それに従い、見失うな、歪まないように見張りなさいと主が言っておられるのである。「知識、知性、考える」などという知的な作業を、キリスト教会が否定する傾向がなければ幸いである。「ただ、信じなさい。信じさえすれば良いのです」という教えが、甚だしく誤解されて流布しているという気がしてならない。確かに「信じる」ことは恵みによって与えられるので、頑張って信じることが出来るわけではない。学問や、科学や、知的な学びは、知識を増やしたり思索を深めるだけだったりして、ただの頭の体操でしかないばかりか、信仰の視点からはかえって阻害的に働くこともあるのは事実である。見事な聖書知識を持っている人でも、信仰に至らない人はいる。しかし、正しい知識は恵みによって内側で昇華して、信仰に至るのである。考えるという過程を経過して福音を信じる心に至るのだと聖書は教えていないだろうか。

また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。(コリント人への手紙第一15章2節)

知性が磨かれず、無知であると主から遠くなり、不信仰は知性まで汚れてしまうとパウロは言っているのである。

彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。(エペソ人への手紙4章18節)

聖書を読み、深く思索することが決して知的働きだけに留まらず、御霊が働かれて、霊にも魂にも新しい息吹が吹き込まれ、信仰が高められることがしばしばである。まして、霊魂に強い負の影響を及ぼす進化仮説という思想は、それを拭い去ることによる効果は知的な学びが主題ではなく、むしろ霊魂への清めに繋がるのである。キリストの肉を食べ、血を飲むものが永遠のいのちを与えられ、キリストの内に留まり、キリストもそのような者の内に留まってくださるのである。(ヨハネの福音書6章53-56節)

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネの福音書5章39, 40節)

信仰は知的作業ではないので、パリサイ人のように目の前にその方がおられても見えなかったように、私たちも聖書を知的作業として読んで理解したと勝手に思っても、決して目の前におられるキリストが見えず、お腹の底には収まらないのである。信仰は目の前におられるイエス・キリストのところに行くことであり、八百万の神々・ヒューマニズム・進化論こそが、キリストの御姿を隠しているのである。

イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(マルコの福音書12章29, 30節)