進化論とは?

[Ⅰ]  序 :「しんか、しんか」の大合唱 

「進化」という言葉はよほど日本人の感性に居心地が良いのか、毎日この言葉を聞かないことはないほどである。練習によってスポーツの技量や、楽器の演奏の技能が「進化」し、工夫を重ねてコンビニ弁当の味が「進化」し、車、パソコン、その他各種の製品が「進化」すると言って、誰も不思議に思わないから不思議である。

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「進歩」「上達」「発展」「改善」という積極的な表現をすると意味が限定されるから何となく使いにくい、かといって「変化」では前向きの内容が伝わらない。この頃日本人も多様化しているので、一般shinkatoha_2.png化するのは必ずしも正しくない側面はあるが、それでも敢えて一般化すると、日本人は何事においても定義を厳密にすることを好まず、良く言えば一歩退いて相手に譲る余裕、悪く言えば融通の利く曖昧模糊の状態を保つ傾向がある。そのためだろうか、意味を曖昧ままにshinkatoha_3.pngして、いつの間にか何でも手当たり次第に「しんか」という言葉を流用して、言うなら言葉遊びをするようになり、「しんか・しんか」という言葉の大合唱で現在の日本の社会は満ちあふれている。

 


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ラーメンが進化するといっても、犯罪の手口が進化すると言っても、或いはパソコンやロボットが進化すると言っても、それ自体にはどんな問題もないかもしれない・・・ただの、言葉遊び、誤用で済むのであれば、である。

問題は、人間の頭脳がこの言葉に慣れ親しみ、見事にマインドコントロールされて翻弄されてしまうことである。進化という言葉がどんな抵抗もなく受け容れられ、事実であると思い込んでしまい、そして、実際、生物は進化することを明確な事実であると受け容れてしまっていることである。

 

[Ⅱ]  進化論とは何か? 

日常の生活の会話では、言葉の定義に厳密にこだわる必要はないだろう。特に、日本語はそれぞれの単語に複雑な意味が包含されていて、それ故に日本文化の一端を担う豊かな言語となっている。しかし、自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、学問の領域においては言葉の定義は正確でなければならないので、そういう分野では多少マイナスの特徴を備えた言語であるように思う。それが、この進化という言葉の扱いにも現れているようで、茫漠とした意味で「しんか」という言葉が一般に使われている。
テレビで、一般の会話で、使われる各種の「しんか」

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「進化」「進化論」が「広辞苑」「大辞泉」「大辞林」などの辞書でどのように定義されているか、まとめて下記に紹介する。

しん-か【進化】(evolution)
①進歩し発展すること。
②生物が周囲の条件・環境への適応や、それ自身の内部の発達によって、世代を経るにつれて次第に変化し、元の種との差異が増大して多様な種を生じてゆくこと。その過程では体制は概して複雑化し、機能は分化して適応が高度化し、種や属の段階を超えて新しい生物を生じるなど、種類が増す。
③無機物から有機物へ、低分子から高分子への変化などについても用い、さらに星の一生や宇宙の始まりについても用いられる。
④生物における進化の観念を社会に適用した発展の観念。社会は同質のものから異質のものへ、未分化のものから分化したものへ、進歩して、よりすぐれたものや複雑なものになること。未開社会から文明社会へと変化発展すること。社会進化。

しんかろん【進化論】(evolution theoryの加藤弘之による訳語)生物のそれぞれの種は、創造主によって個々に創られたものでなく、極めて簡単な原始生物から進化してきたものであるという説。1859年、ダーウィンが体系づけたことによって広く社会の注目をひき、以後、文化一般に多大な影響を与えた。

このように、「進化」「進化論」は元々「生物のそれぞれの種類は、創造主によって個々に創造された」とする"創造論"に対抗する学説として生まれた。そしてダーウィン以降、進化論の研究は進められてきて、現在の進化論は、100 人の進化論科学者がいれば100 通りの進化論がある、というほど多様性があり、今でもその形を変化し続けている。


[Ⅲ] 進化論の基本概念

進化論はこのように諸説があり、詳細な点に言及すると統一した「論」にはならないが、しかし、基本的な理念・思想は以下のように簡潔にまとめることが出来る。

進化論の3つの基本概念
①偶然による生命の誕生・化学進化
命のない無機物から、偶然、最初の生命ができた。
②数十億年という悠久の時間の間に、無秩序な偶然の変化が積み重なった
③自然選択による秩序の増大
最初の単細胞に偶然の変化が無数に起こり、生きるために必須の変化、或いは生存に有利な情報は残り、生命を脅かすような変化、或いは生存に不利な情報は消滅するという自然選択により、その生命は、単純なものからより複雑なものへと、より高度な秩序を獲得していき、ついに現在の高次元の生物体系が確立した。

進化思想は、まず「偶然による生命の誕生」という土台の上に成り立っている。まず、最初の細胞が偶然に「湧いて出る」ことが出発点であり、その後、どのような経路を辿るとしても順次、高次の生命体が生まれてきたという思想である。


[Ⅳ] 偶然による生命の誕生 

生命の自然発生は可能なのか? 生命は偶然の産物か??
アリストテレスの時代から、「ウジが湧く」「ボウフラが湧く」というように、生命は無生物的に発生する、と信じられていた。これについては、ダーウィンの『種の起源』をはじめとして、多くの進化論の説明では、「とにかく何らかの形で生命が誕生した」というように、説明を抜きにして自然発生を前提事実として扱われている。高校の教科書にも「地球の歴史の中のある時,ある場所で原始的な生物が誕生した。」(三省堂「高等学校生物Ⅱ」)と昔話のように書かれているが、科学的に証明されてはいない。そして前述の通り、この「偶然による生命の誕生」は進化論にとって

shinkatoha_8.png出発点であり、なくてはならないものである。そして『化学進化』は、その説明のために最も有力とされている仮である。

まず、生物の体の大部分は特別の生理機能を持った壊れやすいタンパク質という高分子物質で構成されており、そのタンパク質を構成する基本単位はアミノ酸と総称される20種類の物質である。タンパク質のほとんどは、それぞれに定まった数百以上のアミノ酸が、定められた順序に整然と並んで出来上がっていて、この配列が一つでも狂った場合には全体が崩れるほどの重大な影響が及ぶので、それら一つひとつのタンパク質が偶然に生じることはあり得ないのである。化学進化の考えによると、水素原子(H)2 つと酸素原子(O)1 つが結合して水(H2O)になるような単純な化学変化の延長で、まず徐々にタンパク質の材料のアミノ酸などが偶然に生じる。20種類のアミノ酸のみならず、その他、糖類や諸々の生体を造るための材料が全て偶然に、無事に調った後に、生命に必要なタンパク質が出来たと考える(図)。実際には、タンパク質を造るための材料調達さえ偶然にできることではない。

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化学進化を最初に提唱したのは、ソ連(現ロシア)の科学者アレクサンドル・オパーリンである。オパーリンによって1922年に出版された『地球上における生命の起源』という本で、物質から生命が誕生した過程に関する考察が発表された。図のように、1~4の順番で「原始地球の無機物から有機物が生じ、その有機物が原始地球の海に蓄積して"生命を生み出すためのスープ"のような状態になり、その中から生命が誕生した」というものであるが、この内容には、多くの疑問や矛盾が存在している。

そして、単純な生命の例としてしばしば挙げられるアメーバや、図に示したアメーバと同様単細胞であるピロリ菌(酸の海である胃の中で棲息することが出来る細菌。胃潰瘍の原因菌とか胃ガンを誘発するとかという説もあるが、まだ確認はされていない)でさえ、その体は約2,000 種類ものタンパク質からできている。1種類のタンパク質が偶然できることさえ起こりえないのに、「偶然によって2,000 種類のタンパク質ができて、それが適切に組み合わさって一つの細胞ができる」と考える化学進化は、科学的な観察事実と完全に矛盾しているのである。一つの細胞になるということ、すなわち「生命活動の開始」という究極の難関が最後に待ち構えているのである。現代科学の粋を結集した実験室で、すべての条件が整えられても、無生物が生命活動を開始するところは一度も観察されていない。


[Ⅴ] SFの世界・・・ちょっと一休み

人々の遊び心をくすぐったSFの世界を、少し 覗き見をして楽しんでみよう。

shinkatoha_10.pngこの地球は「生命が生まれ、生きる事が出来る唯一の水の惑星」であるのに、その地球上での生命の偶然の誕生は説明が困難なため、進化論者は生命の自然発生を放棄せざるを得なかった。そこで時間のみならず距離・空間的にも科学的に追跡できない遠い、遠い宇宙の果てに生命の起源を求め、「原始生命の痕跡探し」の果てしのない旅に出かけることになった。まず、生物の発生と存在のためには水が必要であるから、進化を信じる多くの天文学者たちは「水、水、水」と水を探しに惑星に出かけて行く。2012 年8 月に探査機キュリオシティが火星に着陸し、火星にはかつて水があったらしいと結論している。こうして「原始生命は宇宙から飛来した」と考えて大勢の研究者たちは調査を進めているのである。

shinkatoha_11.pngshinkatoha_12.pngshinkatoha_13.png

shinkatoha_14.png著名なカール・セーガンなどの学者グループは知的生命体が宇宙のどこかにいるに違いないと信じ、地球外の知的生命体・仮想宇宙人によって発見されれば解読されることを前提に、変形しない普遍的なメッセージを太陽系外に飛んで行く探査機に搭載することを考案した。その最初の試みがパイオニア探査機の金属板であった。彼が鋳造に加わった改訂版、ボイジャーのゴールデンレコードが、ボイジャー1号とボイジャー2号に積まれた。

shinkatoha_15.png太陽系の外、遠い、遠い、宇宙に様々な姿形をした知的生命体、宇宙人がSFの世界には描かれていて、その限りにおいて面白い。だが、どこまでもお遊びであり、有能な学者が大真面目で宇宙にまで生命の起源を探しに行き、あまつさえ知的生命体を探しに行くのは、いかがなものであろうか。


              
[Ⅵ] 進化の道筋の概要

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生命の自然発生、つまり上記、[Ⅲ]項に示した進化論の基本概念①の前提の元に、②及び③を一直線で図に示すと図のようになる。進化の道筋を思い浮かべるとき、道筋の出発点は偶然に湧いて出た原子的な生命体、一つの細胞であり、40~45億年の気の遠くなる大昔、「とにかくなんらかの形で生命が誕生したのだ」という前提で話しが進められる。

その後の長い、長い時間の経過と共に順番に、植物も動物も高度の秩序を獲得した。「ある生命がどのように進化したのか」ということが論じられ、どのような順序でこれら生物が現れたとしても、とにもかくにも、ある生物、例えば恐竜などは現れて一定の期間繁栄し、そして絶滅し、マンモスが現れ、氷詰めになって発掘され、一方別の生物、例えば魚類は現れてその後、無事に今の時代まで生き延びている。「魚類から両生類へ」進化し、さらにサルのような動物へ進化し、遂に200万年前に「サルからヒトへ」進化したという図である。

さて、生物の進化を論じるときに実際に紹介される具体例は、同じ種類の中での変化(種内変異)だけであり、種類を超えた変化は全く観察されていないので紹介されるはずはない。生物の種内の変異・多様性と、種類の壁を乗り越えた変異は全く別の出来事なのである。

最近、「恐竜から鳥への進化」が注目され、ニュースや新聞で盛んに報道されている。しかし、恐竜と鳥は、骨の構造から羽毛、排泄に至るまで様々な特徴に違いがある。仮にその一部、たとえばウロコから羽毛への進化の説明を試みようとしても、それは完全に失敗に終わり、したがって進化の説明は不可能なのである。「証明された」というよshinkatoha_17.pngうな大きな見出しでマスコミを賑わせるが、そのどれも事実ではなく、今以て、ウロコから羽毛への進化が証明されたことはない。実は、生物の種類の間の進化は、このような局部的な変化ではなく、本質的に大きな間違いを包含しているが、これらについては後に論述する。

進化の道筋が先の図のように一本道を辿ると考えることが出来ない事実が次々と発見されて、進化の道筋に幾筋もの「曲がり角」「枝分かれ」を設定して、進化の系統樹が作成された。進化の道筋で矛盾が生じる度に曲がり角を設定し、どこに・幾つ・どのように設定するか、幾つもの可能性が次々と示唆された。そして、次々と進化の新しい、無数の終点を設定せざるを得なくなって、髭のような小さな枝ばかりが次々と増えているのが、現在の分類学である。




[Ⅶ]  進化論とは? 結語

「偶然による生命の誕生」はあらゆる面で、進化論を考える上で決して無視できない最大の壁である。
この点が否定される限りにおいて、進化が成立しないことは、科学的に余りにも明白なのである。だからこそ、進化論を信じる人々は遂に、追跡不可能な「無限の過去」と同時に「無限の空間・宇宙」に生命の起源を求める様になったのであろう。

「偶然による生命の誕生」は生物学的に、実験的に、理論的に否定された。それが現在まで人類が知っている科学的な観察事実なのである。「生命は生命からしか生まれない」という究極の法則は今も生きている法則である。