2.真理を覆う諸々の信仰

 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。(使徒の働き17章16節 22節,:23節)

[Ⅴ] 遺骨信仰・祖先信仰

① 盆・墓参り

  • 毎年、盆には死者が帰ってくる。
  • 迎え火を焚いて出迎える。
  • 普段より豪華なお供え物をする。
  • お盆が終わったら、送り火を焚いて送る。

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京都の五山の送り火は、その豪華版。
五山送り火は、毎年8月16日に行われるかがり火。
宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。

  • 「大文字」(大文字山(如意ヶ嶽)。20時00分点火)   
  • 「松ヶ崎妙法」(西山及び東山。20時10分点火)
  • 「舟形万灯籠」(西賀茂・船山。20時15分点火)
  • 「左大文字」(左大文字山。20時15分点火)
  • 「鳥居形松明」(嵯峨鳥居本・曼陀羅山。20時20分点火)    

以上の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。

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moromoro_shinkou_3.jpg② アメリカのお盆: ハロウィーン
 ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てきたりすると信じられていた。これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。
 アメリカでは、子どもたちは仮装をして 「ご馳走してくれないと悪戯するぞ」と言って、各家庭を回って、お菓子などを貰って遊ぶ。

ロンドンにあるロシア正教会の司祭は、ハロウィーンを「死のカルト」であると批判している。


moromoro_shinkou_4.jpg③ 遺骨収集作業・遺骨信仰の不思議・矛盾

 日本人は遺骨を特別視して収集し、墓に収め、供養する。
神武天皇陵の写真の左に書かれている系図は神話で、系図の一番下に書かれているのが神武天皇である。古事記、日本書紀では、日本の初代天皇ということになっており、このように立派な天皇陵が祀られている。

 次は実在した人物であるが、浅草泉岳寺には、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭、大石内蔵助、赤穂四十七士の墓が、生前の身分に従って、上位の者の墓は大きく立派に、下位の者の墓はその他大勢として、並べて設けられている。この事件の真相はどうであれ、300年以上も経った今もなお、墓参りする人が供える線戦死した人の遺骨収集は、今もなお一部の人々によって熱心に行われている。遺骨の個人が特定されると、「こんな所に置いておいて、寒かったでしょう、寂しかったでしょう」と、遺骨に語りかけて涙するのが日本moromoro_shinkou_5.jpg人である。香の煙が絶えないようである。このように強烈な祖先信仰、遺骨信仰を持っているにもかかわらず、その同じ人々が、火葬後の遺骨に対するあまりにもサバサバしたというか、あっけらかんとしたというか、信じられないほどの割り切り方は理解に苦しむ。火葬された遺骨は、実はほんの一部しか集められない。幼児の遺骨ならあの小さな骨壺に全部入るであろうが、大人なら如何に小さな女性で、仮に骨粗鬆症になっていて骨がボロボロになっていたとしても、骨壺は2個乃至3個は必要だと思われる。

**参考までに、私の母は年老いて病で体がボロボロになっていたので、人生を終えた時は140cmほどの小さな体になっていたが、遺骨を全て収集するのに骨壺は2つ半必要であった。男性なら最低4つは必要だろうな、とその時思った。**

 遺骨を大切にする人々が一方では、遺体を火葬し、集めた残りの遺骨は・・・・、どうなるか気にも留めない。実は、全て「産業廃棄物」として、ガラガラとどこかへ捨てられてしまうのであるが、「辛いでしょう」と嘆き悲しむ人はいないようである。遺骨信仰を持っている人々に、残りの遺骨は「産業廃棄物」として捨てられるのだと話しても、びくともしない強靱さにはびっくりさせられた。そして又、遺骨の中でも喉仏の骨を「本骨」と言うのだそうで、そこに死者の魂が宿っているかの如く、それだけを大切にする信仰もあるようである。

**世間一般に喉仏と言われる骨は、実は、喉仏では無く、頭蓋骨を支える首の二つ目の骨で、仏が座っているような「三角形」の形をしているので、故人の他の骨より尊重する傾向がある。喉の突起している部分は、喉頭隆起と言い、喉の中間にある突起した部分で、火葬の時に融けてなくなっている。**

moromoro_shinkou_6.jpg④ バリ島:ヒンドゥー教の葬儀

水辺で火葬にし、そのまま水に流す。
葬列では賑やかなガムランが演奏される。

 天国へ行くための晴れやかな儀式であるため人々の表情は 一様に明るい。
                                               
 クリスチャンの葬儀がこのように朗らかであったことは、少なくとも私は見たことがない。確かに、この世の別れは寂しく辛いものに違いないが、しかし、天国へ帰還し、懐かしい主とお会いする最終的な幸せを手にしたのである。特に、病に苦しみながら肉体に閉じ込められている人の場合、この束縛から解き放ってくれるこの世の「死」は、その人のために悲しみであるはずはない、本当にキリストを救い主と信じているならば。
 
 平均寿命に達している人の場合、本人も家族や周囲の人々も納得しやすいだろう。しかし、若い人、特に子どもの場合には、当人は別としても、家族は堪えられる限界を超えている、ただ理不尽だと怒りを覚え、現実を受け容れることが出来ないのが普通であろう。今の肉体が仮の住まいであり、本当の素晴らしいいのちは永遠の世界にあるのだという知識はあっても、実際に生身の体を持ち、五感で感じ、血が通っている私たちにとって、この知識を現実に適用することは非常に困難で、知識は知識でしかない。この世界で生きることと、キリストの元に行って安息することとを、パウロのように希望を持って具体的に思い浮かべるためには、絶対的な信仰・信頼を我が物と出来ていなければ不可能である。

 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ人への手紙1章21-23節)

 

[Ⅵ] 「三途の川信仰」と地蔵菩薩

① 三途の川の渡り賃:六文

 平安時代の末期には、死者は全員、渡舟によって渡河するという考え方になる。
仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いており、現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭(冥銭)が使われることが多い。
                                                  
②賽の河原:三途川の河原                                         

 賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になるということになっているが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、何度、築いても破壊されてしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。

③「三途の川信仰」と地蔵菩薩
 子供の守り神として、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めた。
仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。現在でも、日本の町の到る処に地蔵が祀られており、手を合わせる人々がいることは、周知のことである。まさしく信仰深い日本人の一つの姿である。

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[Ⅶ] 動物を礼拝

①狐・稲荷神

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moromoro_shinkou_9.jpg②蛇礼拝
*足を持たない長い体・毒を持つ・脱皮をする・・・ 
   「死と再生」を連想。
*長期間餌を食べなくても生きている生命力・・・古来より 
「神の使い」としてヘビを崇める風習が発生
*最近でもヘビの抜け殻が「お金が貯まる」として財布に入れる
などの風習がある。
*漢方医学や民間療法の薬としてもよく使われる。
日本でも白ヘビは幸運の象徴とされ特に岩国のシロヘビは有名    
*アスクレピオスの杖
*スター・オブ・ライフ 
アメリカを中心として世界中で救急
医療のシンボルマークに。
突出した六本の柱の意味
1. 察知 2. 通報 3. 出場 4. 現場手当 5. 搬送中手当 6. 医療機関への引き渡し

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moromoro_shinkou_11.jpgmoromoro_shinkou_12.jpg

 * 守護神: 蛇
moromoro_shinkou_13.jpg ナーガは、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神のこと。上半身は頭頂に5匹の蛇を飾る人間で、下半身はインドコブラという姿。
釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。

[Ⅷ] 聖書に書かれている「蛇」

① 原罪、悪、呪いの象徴、[蛇] 

 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。(創世記3章1節)

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 という書き出しで始まる記録は、蛇が実に見事な手練手管で人を誘惑し、取り返しの付かない大罪を人に犯させた「憎い奴」とされる一連の事件である。そして、このことに対してそれぞれに主が処罰を下された。

 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記 3章15節)

 そして、蛇は女の子孫(英語訳だと単数で、特定の一人の特別な子孫、つまりイエス・キリスト)のかかとに噛み付き、イエス・キリストは蛇の頭を踏み砕いて勝利することが事件の直後に宣告されている。そして、イエス・キリストがまむしの末の悪霊たちに対して、次のように叱責しておられる。

 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。(マタイの福音書23章33節)

 人類にとって、世界にとって、蛇はどういう意味でも呪われる対象であり、そして最後まで呪いであると、聖書には書かれている。

 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。(黙示録20章2節, 3節)

moromoro_shinkou_15.jpg② モーセと蛇
 聖書を読む人は、「蛇」と言えば、次にはモーセを思い起こす人も多いだろう。羊飼いであったモーセが持っていた杖を主は羊に変えて、インマヌエルの主が共にいてモーセを護り、支えられることを示し、モーセの使命を教えられた。

 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。(出エジプト記 4章3節)                                                                 
 パロの毒牙から逃れて出エジプトを果たすまで、時に応じて主は杖を蛇に変え、また、次々と大いなる奇蹟の御業を行って主が共におられることを示し、モーセを先頭にしたイスラエルの民を護り、導かれたのである。

moromoro_shinkou_16.jpg③ 青銅の蛇(ネフシュタン)・懲らしめの道具・拝む対象
「民数記」では、エジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中までやってきたときに、苦しみに耐えかねて不平を言った。そこで神は炎の蛇を送って、不平を言う民に噛み付かせて懲らしめられた。

そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。(民数記21章6節)

 パウロはこの出来事を次のように書いている。
私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。(コリント人への手紙第一10章9節)

 悪いことをして「ごめんなさい」と言い、その舌の根が乾かないうちに、また悪いことをしたイスラエルの民のぶざまな生き様が聖書に赤裸々に書かれている。これはアダムに始まり、イスラエルの民に受け継がれ、異邦人moromoro_shinkou_17.jpgも含め、全人類が途切れることなく悪行を行い続けている歴史であり、今も続行中である。

 民がモーゼに赦しを願ったので、モーゼは神の言葉に従って青銅で燃える蛇を作り、旗ざおの先に掲げた。(民数記21:4-7)

 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。 すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。(民数記21章8節, 9節)

 こうして、モーゼ時代からユダ王国のヒゼキヤ王の時代まで、青銅の蛇は偶像となり人々は香をたいて青銅の蛇(ネフシュタン)を崇拝し続けた。この蛇は祭礼用としての色彩が強かった。

 そして、ヒゼキヤ王が王位に就いた。

 彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。
(列王記第二18章3節)

 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。(列王記第二18章4節)

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 上の絵を見るとわかる通り、蛇は癒しと罪を肩代わりしたキリストの象徴でもある。
蛇は不死や治癒、罪からの癒しの象徴であり、脱皮することからもわかる通り、復活の象徴でもある。                                       

moromoro_shinkou_19.jpg ファリサイ派で最高法院の議員であったニコデモが、教えを受けるために夜ひそかにイエスを訪れたとき、イエスはこの青銅の蛇をたとえに用いて次のように語られた。

 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3章14-15節)。

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[Ⅸ] 人間中心主義・科学信仰・・・信仰の成長のための障碍

① 偶像崇拝・人を心の底から捉えて離さない別のかたち
 一般には信心とか宗教であると認識されていないが、実はある時には通常の宗教より遙かに強く人の心を支配する信仰を、多くの人々が持っていることがある。すなわち、人が犯した最初の罪、全知全能の創造主、唯一の神が食べてはいけないと言われた木の実を食べた罪、この反逆罪に踏み切らせた「人間中心主義という信仰」は、私たち子孫に営々と引き継がれ、増幅され、力強く脈々と生き続けている。この強い信仰は、通常信仰とはみなされておらず、様々な仮面を被って私たちを襲ってきて、自分を創造して下さった方の御姿を見えなくしてしまっている。
「いのちよりも大切」と言わないまでも、相当大きな比重を掛けて大切にしているもの、それは形のあるなしに関わらず行動の決定に大きな影響を及ぼす大切なものを人は持っている。

物質・・・財産(土地、家等)・お金
名誉・・・社会的な地位、各種の「勲章・賛辞」
人・・・家族、権力者、権威者、友人、自分自身
思想(進化論)・学問(科学)
究極、ヒューマニズム・人間中心主義に辿り着く

奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。(コリント人への手紙第一7章22節)
 
 「宗教・信仰」という顔をしていない「何か」に囚われてしまうと、抜け出せなくなってしまう。自然体であれば本当は自由であるはずであるが、どれだけ自由になっていると粋がってみても、キリストにある自由をなかなか我が物には出来ない。そのようになろうと思えば思うほど、そのために頑張って努力すればするほど、自由を失っていくのである。

② 進化化メガネ・聖書メガネ

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ人への手紙5章1節)

 キリストを信じるクリスチャンになったからといって、進化論から完全に自由になるのはそんなに容易ではない。今は世界中のどこに住んでいても様々な攻撃が襲ってきてクリスチャンの自由を奪おうとするが、日本では四方八方から、その強度において、頻度において、内容の強烈さにおいて、5倍にも、10倍にも及ぶ厳しい攻撃が襲ってくる。
「またと奴隷のくびきを負わせられないように」と、パウロはガラテヤ人に警告を発している。奴隷のくびき、すなわち「進化化メガネ」を掛けると、自由であるつもりで完全に自由を失って奴隷になってしまうのである。進化論的死生観に立って世界を、人間を見ることによって、奴隷となり見えなければならないものが全く見えなくなって、死の世界を本物だと思ってしまう。

moromoro_shinkou_21.jpg 一方、この進化化メガネを叩き潰して、まず、聖書メガネを掛ける必要がある。聖書は絶対主である創造主の著書であるということをしっかり知って、書かれていることは正しいと信じる信仰に立つことによって、聖書メガネを通して正しく世界を、いのちを見つめることが出来るようになる。聖書メガネを掛けることによって、真理が見えてくるのである。


 進化化メガネ:日本では進化が正しいという前提に立っている。このメガネを掛けてしまうと、真理が見えない。そして、見えるものは死の世界、希望のない世界、いのちの意義が見えない、生きている喜びのない世界である。社会がどんどん混乱し、人々が不幸になっている世相は進化化メガネの効果である。

 聖書メガネ:聖書が主の著書であるということをお腹の中にしっかりと収め、聖書メガネをしっかり掛ける。すなわち、全てのことの判断を聖書に仰ぐ生活態度を身につけた時に、真理が見える、人間の歴史を学び、いのちの意味・目的・意義が分かる。全能の主が見ていて下さる、護っておられるという安心を得ることが出来る。そして生きる喜びが湧いてくる。

聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(テモテへの手紙第二3章15節、16節)