さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。(使徒の働き17章16節, 22節, 23節)
◆ 創造主が、人のために書き記された書物、聖書の冒頭、創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」は、これだけで全てが語り尽くされていると考えても良いと思われる。この大宣言を「腹の底」に本当に浸み込ませたら、雲が晴れたように聖書全体が見えるようになり、恭しく聖書を読めるようになるはずであると、私が真剣に思い始めて10年になる。
◆日本の社会の隅々にまで充満している諸々の宗教、諸々の思想は、この重要な御言葉を覆い、跳ね返す強力な手段になっている。しかも、実にずる賢く、内側の真の姿を隠しているために、まるで透明のヴェールに包まれているかの如く、私たちには見えにくい状態になっている。どのようなものが存在しているか、そしてどのような姿をしてその役割を果たしているか、その働きの一端を学んでみよう。
【主】はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、(エレミヤ書33章25節)
全知全能の創造主が天地万物を創造されるに際して、自然界の全ての法則を定められた。ややもすると法則は初めから存在していて、その法則に従って天地万物が創造されたと逆立ちの考えをしていることが多い。
すでに存在していた法則に従って創造されたのではなく、創造主が全ての法則を定められたのである。
このことの内容を考えてみよう。科学の難しいことを考える必要はない。私たちはこの諸法則の中で生きているので、自分の身の回りのことで思い出してみよう。
物理法則: 物体は支えていなければ、上から下へ落ちる。
水は常温では液体、温度が下がると固体(氷)、温度が上がると気体になる、等々。
化学法則: 全ての物質は、それぞれの構成元素が定まった比率で規則正しく結合している
例えば、水素と酸素が2:1の比率で化学反応を起こすと水になる。
生物学的法則: 生命は生命から。種類の壁を越えて繁殖することはない。ワニから鳥は生まれない。
生命体は部品の寄せ集めではなく、統合的に働き維持されて、生命体は無事である。
神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは非常によかった。(創世記1:31)
第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。(創世記 2章2節, 3節)
ヘブル語で書かれた聖書原典の翻訳に当たり、全知全能の主権者「エローヒーム(Elohim)」を、日本語の誤解を招きやすい「神」という既成の言葉を、最終的に当てはめてしまったことの弊害は目を覆うばかりである。
「全てを超越した全能のエローヒームが、空間・物質・時間からなる宇宙を呼びだし、存在させられた。そして、全てを終えられて、1章31節に総括をなさって、完成を告げ、祝福し、聖であるとなさった」
さて、これをなさったのは、絶対者であり唯一なる方、創造主であるが、日本語では「神」である。
生まれも、育ちも、現在に至る歴史的にも、異邦人中の異邦人、ピカピカの異邦人である日本人は、「神」という言葉を、どのように理解するのだろう?
① 八百万の神々、怒らせると祟りをする神
様々な信仰を持つ日本人。触らぬ神に祟りなし。何でも拝んでおこう
② 神様を一つ増やせば良いのかな?? みたいなキリスト信仰??
熨斗(のし)や水引に、宗教的な、霊的な要素が籠もっていることを、一般人も、霊的に覚醒しているクリスチャンも知らない人が多いようである。・・・
✻✻(「のし」は延寿に通じ、アワビは長寿をもたらす食べ物とされたため、古来より縁起物とされ、・・・中世の武家社会においても武運長久に通じるとされ、陣中見舞などに用いられた。
「水引」は、結び方や素材の色等で、意味を付けて縁起を担ぐ。結び切りは何度も繰り返さないという意味、蝶結びは何度でも結び直せるので御祝いであっても、快気祝いや結婚祝いには使われないなど、・・・。Wikipediaより)✻✻
日本の社会で普通に行われている年中行事の多くは、八百万の神々が拝まれていたり、祈りや呪いが込められていたりする祭事である。
干支はれっきとした宗教的な意味が含まれており、山や、滝、太陽、月、星や美しい自然に畏敬の念を覚え、拝むのが日本人であるようである。流れ星を見た時に祈りを込めると、その祈りは聞かれると教わったことはないだろうか? 葬列の車を見た時は、自分の親指を隠さないと、親の死に目に会えないとか、親と早く死に別れるとか聞いたことのある人もいるだろう。迷信が満ちあふれている日本である。
てるてる坊主にさえ祈りを込める、何でも拝んでしまう日本人は、パウロが憤慨したアテネの人と同じである。
だからこそ、日本人にはパウロがアテネの人々に語った次のメッセージが、非常に重要な意味を持って迫ってくるのである。
さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。(使徒の働き17章16節, 17節)・・・
そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17章22-31節)
③ 日本人の神とは?
日本では、各種の土着の信仰や様々な迷信などが年中行事として各地で行われている。それを、神社や寺が適当に世話をしている?ようである。
① 七福神: 幾つもの宗教の混合したもの
福をもたらすとして、神仏習合による日本的な信仰対象になっている七柱の神。室町時代末期頃から。正月、枕の下に「七福神の宝船の絵」を置くと、良い初夢が見られる?七福神巡り:神社を順にお参り、縁起を呼ぶ?
③ 犬は安産の神?
初宮参り:赤ちゃんが無事に生後1か月目を迎えたことを産土神に感謝して報告する行事
出産や初宮参りとは限らず、七五三など折に触れて宮参りをして、様々な願い事を絵馬に書いて、絵馬掛けにぶら下げる風習も、全国の神社で行われている。 願い事を書いて、ぶら下げておくと願いが叶う?と本気で信じているのだろうか?
④ 年末から正月に掛けての諸行事は、縁起・宗教がらみ(餅つき、九日餅(苦持ち)、鏡餅、門松、参拝)
12月29日は「苦を搗(つ)く」から九日餅と呼び、29日だけは餅を搗くのを避けた
鏡餅は、穀物神である「年神」への供え物
門松:木のこずえに神が宿ると考えられ、年神を迎える
⑤ 流し雛
平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、身の穢れを水に流して清める意味の民俗 行事として、現在も各地で行われている。形代(かたしろ)とは、神霊が依り憑く依り代の一種。人間の霊を宿す場合は人形を用いる。「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。
春の訪れと共に飾るひな人形に、厄除けの意味があるということを、一体どれくらいの人々が知っているだろうか?しかし、ボンヤリとしてであっても分かっている証拠に、古くなったひな人形をただのゴミとしては捨てる人は少ないようで、神社に持って行って「のりと」を上げてから捨てるようである。
日本人は諸々のものが呪ったり、祟ったりすると、恐れていて「呪わないで下さい」と様々なことをしたり、供養をしたりする。供養は元々仏教の行事であったが、日本の民間信仰では、死者・祖先に対する追善供養から派生して用途が広がり、死者のみならず、動物などへの供養、生き物ではない道具等に対する供養もある。
ペットのお墓や供養は広がりつつある。人形供養、針供養、はさみ供養、鏡供養、表札供養、仏壇供養等々。
表札供養で思い出したが、昔、受験生が他人の家の表札を盗むと合格するという迷信が流行ったことがあった。よもや今もしているだろうとは思いたくないが、どういう家の表札が良いとかいう選り好みがあったのか無かったのか、覚えていない。
家を建てる時には、土地の神が怒らないように「地鎮祭」をする。日本人は、こんなにも色々のものの呪いを恐れている民族なのであろうか?
⑤ 七夕信仰
短冊に願い事を書いておくと、牽牛星と織り姫が願いを叶えてくれる。物心がつくか、つかない幼い子どもに、このようなたわいもない邪心を教えている日本の教育である。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17章30,31節)