健康に生きるには

コリント人への手紙第一 6章19節, 20節 【口語訳】

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自.身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

[Ⅰ] 序 :人は神のかたちを頂いた

  そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった(創世記1章26節、31節) 。

kenkou_ni_ikiruniwa_1.jpg 私たち人間は、神のかたちを頂いて創造された。私たちが「神のかたち」を思うとき、語るとき、その内容は大抵、霊的側面と精神的側面である。肉体を思い浮かべることは少ないのではないか。しかし、聖書は霊魂と肉体を切り離してはいない。神のかたちとは、分けることの出来ない霊・魂・体が一体となったかたちであり、からだも完璧な神のかたちを映されたものである。すなわち、不老不死である。人は創造主の美しい人格、永遠のいのち、不死を頂いたのである。老いることを知らず、若さを維持したまま頂いたいのちの実質が永遠に継続するものとして創造主は人を造られたのである。

 人は創られたままの姿を直視することが出来なくなっている。肉体的な素っ裸を恥じるようになった。創られたままの姿とは、肉体の問題をも含めて霊的、精神的面を含めた全人格である。そして、この全人格に自信が持てなくなり、頂いた素晴らしい自分自身の本来の姿が見えなくなっている。自分を否定したり嫌悪したり、本当の姿を嘘で飾ったり、「仮面を被って」本当の自分の姿を隠したりして、様々な手段を講じる浅はかな知識や知恵を獲得してきた。

 「健康に生きる」にはどうすればいいのか、霊的側面、精神的側面、そして身体的側面について、聖書は様々に教えている。そのことについて、考えてみよう。

[Ⅱ] 主が与えられた食物

kenkou_ni_ikiruniwa_2.jpg神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」(創世紀1章29節、30節)

 天地万物を主が創造された時、主が定められた地上の秩序は完璧に維持されていた。主の慈愛の中で二人は文字通り手と手を取り合って、豊かに植物が実り、動物たちが楽しく戯れるエデンの園を治めていた。二人にも、動物たちにも栄養豊かな植物が食べ物として与えられていた。このことは忘れられていることが多いが、極めて重要なことである。緑の草、植物、果実などが食物として与えられたのは人だけではなく、すべての動物たち、すなわち、現在草食である牛や羊のみならず、猛獣だと思われているライオンや狼なども全く例外なく草食だったのである。主が与えられた食物は、全ての生き物にとって生きていくための最高の食物であったのであり、穏やかで、平和で、健康に生きる最高の食物が与えられていたのである。

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世紀1章28節)

kenkou_ni_ikiruniwa_3.jpg 主は全てを創造し、健康で幸せに生きる事が出来るように、最高の食べ物を与えて、最高の祝福をこのように与えられた。現在、私たちは植物だけでは栄養が不足するので、肉も食べる必要があるという共通認識に立っているようである。そして、肉食性の動物は、肉を食べないと生きていけないということになっているようである。その認識があまりにも強いので、創世記に明確に書かれていることを単純に見逃したり、無視したり、読んでも信じることが出来ないようである。しかし、創造された最初の時には、全ての生き物は植物によって必要な栄養を充分に得ることが出来たのである。すなわち、当時は、そのような植物であったということである。

主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。  また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。(詩篇104篇14、15節)

主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。(イザヤ書30章23節、24節)

 動物は植物から生きるエネルギーを得て、植物もまた動物によって存在を支えられ、互いに支え支えられする地球全体の機構は見事に統御されている。そして、そのエネルギー循環は創造された時の姿とは大幅に無残に変化しているが、それでも、相互に支え合うという地球全体の統率機構の基本は変わってはいない。

[Ⅲ] ノアの大洪水・・・地球全体が壊滅

kenkou_ni_ikiruniwa_4.jpg 天地万物が創造されてから約1600年を経て、世が乱れに乱れたので、主は地球全体を覆う大洪水によって裁きを下された。主は救いの箱船を造るようにノアに命じられ、主を信ずるノアの家族8人だけが箱船によって救われた。

 洪水によって地殻まで覆った地球は、まさしく壊滅状態になった。造られた美しい地球の姿はどこにもなかった。主の導きによって箱船から出てきたノアは、まず祭壇を築いて生けにえを捧げて主に感謝した。

生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。(創世紀9章3節、4節)
 
 洪水の後、荒涼とした地球で再出発することになったノアたちに、主は肉を食糧とする許可を与えられた。創造された時に定められた大切なルールを変更して、主は何故、肉食を許可されたのだろうか? 肉食を許可する理由を主は述べておられないので、誰にも分からない。様々な推測がされているので、その推測を紹介しよう。


推測① アダムの反逆によって植物も呪われたので(創世記3章17節,18節)、時を経るに伴い植物の構成成分が変化した。さらに洪水を経過して一層土地は貧弱になり、植物の栄養成分は劣化して、遂に人を養うために充分な栄養を備えなくなった。従って、野菜食だけでは栄養分が不足するので、肉食を許可された。これは、推測であるという範囲内で、ある程度論理的ではある。
現在、土に植えて育てた農作物は、これに加えて農薬をたっぷり表面にも、内側にも蓄えている。さらに温室で育てた植物は、当然、栄養分に乏しい。かくて、人々が食べる野菜や果物の品質はどんどん落ちていることからも、簡単に類推される。

kenkou_ni_ikiruniwa_5.jpg推測② 洪水の前から、少なくとも動物に関しては肉食が始まっていた。それは、発掘されている化石から充分な証拠がある。魚の腹の中に小さな魚が飲み込まれたままの完全な姿で、一緒に化石になって発見されている。動物が別の動物に噛み付いている状態の化石が見つかっている。主が洪水を起こされた時、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(創世記6章5節)状態であったので、人もまた、当然肉食を始めていたのだろうと想像される。それで主は致し方なく、肉食を許可された。

推測③ 肉食を許可された御言葉の前に次のようなことが書かれている。

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。(創世紀9章1節、2節)

 すなわち、創造された時には、仲良く共に生きるものであった動物たちが、人の敵となった。そして、動物たちも互いに、争い、食いつ、食われつする関係に、そして動物は人間を恐れるようになり、動物を食べる関係になったというだけのことである。様々な推測をすることは可能であるが、主は肉食を許可した理由を述べてはおられないので、想像をたくましくしない方が良いだろう。

 ノアの洪水によって地球は壊滅状態に瀕したが、箱船にノアの家族8人と、動物たちを載せて護り通されたように、地球もまた主の護りの中にあった。そして、箱船から出てきた人々と動物たちが荒涼たる地上で生きていけるように、肉食を許可されたと同時に、祝福し、新しい契約を人と結ばれた。「虹の契約」と言われている主の一方的な恵みの契約であり、この契約はアダムの子孫、そしてノアの子孫である人類全体に今も有効な契約である。

わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。(創世紀9章13節、14節)

[Ⅳ]  体に入れて良いもの、悪いもの 

 クリスチャンは厳しい規則に縛られていると誤解している人々が大勢いる。クリスチャン自身がそういう誤解の中で自由を失っていなければ幸いである。よもや旧約の律法を守らなければならないと思っている人はいないだろうが、それでも「してはならない」「しなければならない」など諸々の規則が山ほどあると、暗黙の内に受けとめている人は大勢いるのではないだろうか?

 食物に関しても、植物食であったことから始まり、ノアの洪水後に肉食を許可されたことを、正しく理解しないで、その後の旧約の律法をキリスト教の規則であると考えている人がいるかも知れない。「酔っ払ってはいけない」と書かれていることを、「アルコールを飲んではいけない」と拡大解釈している人はかなりいるかも知れない。ところが、イエス・キリストご自身は、カナの結婚式で水をぶどう酒に変えられたし、また食べたり飲んだりしないバプテスマのヨハネと対比して、イエスが (ぶどう酒を) 飲むことを非難すると言及しておられる。パウロは愛する弟子テモテに、体を強めるために少量のぶどう酒を飲みなさいと薦めている。 

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。(テモテへの手紙第一5章23節)

 律法で決められていた食べ物規定に縛られているペテロを、イエス・キリストがこの呪縛から解放されたことが書かれている。一介の漁師であったペテロがイエス様に招かれて忠実な弟子・使徒となり、愛の福音に触れて厳しい律法から解放されていたはずであるのに、それでも自由になっていない出来事が記録されている。

その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
(使徒の働き10章12節~15節)

 使徒パウロは信仰という大きな視点からであるが、食物規定について語って、イエス様の教えを繰り返して教えている。

何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。・・・それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。・・・食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ人への手紙14章2節~6節)

 時代が下って、今の時代を生きる人々そしてクリスチャンは、何を食べ、何を食べてはならないのか、口を経由して、あるいは別の方法でも体の中に入れても良いもの、入れてはならないものの識別をどうすればいいのだろうか? 創造の時に主がどのような植物を用意して下さったかは私たちには分からないが、土地が呪われ良い作物を生じなくなった。
 そして、さらに人は創造主に反逆して浅はかな知恵を駆使し、土地が与えてくれる作物をさらに人の手で駄目にし続けている。「害虫」から守るという大義名分を掲げて農薬をまき散らし、または収量を上げる・天候不順に負けない品種に変える・味を良くするなど様々な人間の欲望を満たすために、品種掛け合わせによって改変し、挙げ句の果てには遺伝子の組み替えをしたりして、品種を変えようとしている。このような人工の手を加えた植物は、生き物を支える食べ物としてどんどん悪くなってきている。そして、いわゆる食物連鎖によって、口に入る食物は互いに劣悪なものへとどんどん坂道を転げ落ちている。また、食肉の材料である牛、豚、鶏などを抗生物質漬けにして、私たちはそれを口にしているのである。鶏はその挙げ句に養鶏場の狭い空間に押し込められて卵製造機にされ、「廉価で手に入る上質のタンパク質」という鳴り物入りで私たち提供されている。

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あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。(イザヤ書1章5節)

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 では、一体私たち庶民はどうすればいいのだろう? スーパーで手に入る食品は、このしてあらゆる面から考えて信用できない、口にすれば、どんな悪いものが体内に入るか分からない、必要な栄養が充分摂れない、特に微量成分がどのように不足するか分からない。考えれば考えるほど、不安をかき立てられる。そのことに関して、食品や栄養補助食品とされているサプリメントなどについて多少の情報や見解を別に紹介するつもりである。

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。(コリント人への手紙第一8章2節)

[Ⅴ] 主が与えられた体への信頼

 現在人類が直面している危機はあまりにも深刻であり、多岐多様に及んでいる。この項では、「病気」というテーマの元に、健康に生きるには、どういう問題があるかという側面から考察を加える。健康に生きることが出来るように創造された人には、体を健やかに維持する驚異のメカニズムが組み込まれている。それは想像を絶する精巧さであり、全身がくまなく統御されている。現在の医学・科学研究によって得られている知見は、現在の人を研究した結果であり、創造された姿を誰も知らない。

 罪が入ったので人は創造されたそのままの姿ではないが、しかし主の憐れみによって重要な機能は取り除かれずに維持されている。主が下さった素晴らしい体、機能への絶対的な信頼を人は取り戻さなければならない。自分自身で守り通すことは困難になってはいるが、それでも主に信頼して、少なくとも最悪の選択を避けることは可能なのである。霊・魂・体の健康は一体であり、決して分離して考えうるものではなく、相互に多大の影響を及ぼしあわずいることはない。主は私たちが霊・魂・体が一体として健康に生きることを願っておられるのである。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。(コリント人への手紙第一12章18節~20節)

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
(コリント人への手紙第一12章22節、24~26節)

 創造された私たちの体は、パウロが述べているように、体の部分、部分は弱いところも強いところもあり、劣ったところも、尊いと見られるところもあっても、実は全てが調和しており、体の中には分裂がなく、互いにいたわり合って一つになっているのである。どのようにすれば、主が造って下さったこの素晴らしい体の健康を維持できるかを、聖書は様々な角度から、様々な表現で教えている。主に反逆すると、体の健康も損なわれること、主に信頼し、従えば健康に喜んで生きることが出来ると教えているのである。

あなたがたの神、【主】に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。(出エジプト23章25節)

もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。【主】は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。(申命記28章15節、22節)

あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。(申命記28章62節、66節)

 主に選ばれ、溢れるばかりの愛を受け、大きな奇蹟の御手によってエジプトから救い出されたイスラエルは、忘れっぽい人々であった。そして、反逆の民となって、その結果平安を失い、いのちを失うことになると主は明確に告げておられる。

  わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。
      (箴言4章20節~22節)

 イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコの福音書5章34節)
 

[Ⅵ] 結語

万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである。
栄光がとこしえに神にあるように。アーメン(ローマ人への手紙10章36節)