5.箱船の残骸は世界の何処かにあるのでしょうか?

創世記8章4節
箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。


noah_5_1.jpg 現在、アララテ山という山は、地図に示している場所、トルコ・ロシア・イランの国境の接するところにあり、このあたりではもっとも高い山です。このアララテ山が大洪水の時に漂着したアララテ山と同じ山であるかどうかは分かりません。アララテ山という名前は、とにもかくにも洪水の後の話ですから、今の地名と同一である可能性は否定できません。
 しかし、洪水の前にあった名前は、洪水後の名前とは同一のものを指していると考えない方が良いでしょう。例えば、現在ペルシャ湾に流れているティグリス川、ユーフラテス川という川がありますが、それは創世記に記述されている同一の名前の川とは別の川でしょう。

創世記2章14節
第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

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 アララテ山に漂着したとされる箱船の残骸あるいは痕跡の捜索が、多くの学者や冒険家たちによってなされてきており、発見したとの報告が現在までに相当数あります。トルコにあるアララテ山の万年雪の下のどこかに、今でも氷漬けになってノアの箱船の残骸が埋まっていると考えている人々もいます。しかし、箱船が漂着したと聖書に書かれているアララテ山が、今のトルコのアララテ山と同じかどうかは明白ではなく、アララテ山とイランのザグロス山脈の中腹のどこかであるという説もあります。

 しかし、これらの報告はいずれも信頼の出来る資料ではありませんが、インターネット上で報告されていることを、幾つかご紹介します。現在、トルコのアララテ山付近は、政情不安定のため学術調査隊でさえも入山出来ないため、調査が出来ず、この問題は未だ謎に包まれたままです。

 2010年4月、ノアの箱船を探す中国とトルコの探検家チームがトルコのアララテ山の山頂付近(標高およそ4000メートル地点)で木片が発見されました。炭素noah_5_4.jpg年代測定を行ったところ、ノアの洪水が起こったとされる4800年前と同時期のものであることが確認されたと報告されました。発見された構造物はいくつかの部屋らしきものに分かれていたことから、普通の住居の残骸などではあり得ないと結論されました。標高3500メートル以上で人の住居が発見されたことは過去にないという理由によります。

  ********** 下に関連情報を付記 **********

 箱船の残骸が見つかって欲しいという人々の願いと熱心によって、探索活動が盛んに行われ様々な「残骸」「痕跡」が発見されたという報告が相当あります。その内の幾つかを紹介しますが、いずれも確証がある訳ではありませんので、余り囚われない方が良いでしょう。
                                       
 2006年、イラン・テヘラン北部にて、ノアの箱船の化石と思われるような物体を発見したと、米テキサスの聖書考古学研究所(B.A.S.E)が発表しました。テヘラン北部の山岳、標高3962mの地点において、化石化した船体らしき木片などを発見したということで、発見された木片は全長121mに及ぶ巨大なもので、明らかに人間の手によるものであると語っています。発見された化石の一部は正確な角度で切り取られています。また船体の横梁、マストのようなものも発見されたと報告しています。写真も公表されていますが、この発表者が、かつてモーゼが十戒を授かったというシナイ山の位置を特定したと発表し、また使徒パウロの船が遭難したとされる島を発見したというような主張を行っていることもあって信憑性が疑われているようです。

noah_5_5.jpg 2003年頃から、人工衛星からアララテ山付近を撮影し、ノアの箱船の残骸の位置を特定する試みが行われ、既にピンポイントでノアの箱船の場所を特定することに成功している、と報告しています。       
民間の商用画像衛星によって撮影されたアララテ山の「ノアの箱船」とされる高解像度画像が一般公開されました。この画像は、アララテ山腹北西部、標高4,663mの地点で撮影されたものと発表されました。物体は氷河の中に埋没した状態で、その氷床下はまだ明らかになっていません。

 しかし米ヴァージニア大学リッチモンド大学助教授によれば、物体の形態は旧約聖書に描かれているノアの箱船とピタリと符号しているということです。聖書に描かれるノアの箱船の縦横比率が6:1であり、衛星写真に映し出された物体も6:1の比率を示していたことを指摘しています。

noah_5_6.jpg 1957年にトルコの空軍パイロットが山の傾斜部で船のような形をした物体を目撃しましたが、トルコ政府は特に調査を行うことはしませんでした。またその後もアララテ山へ向かう調査団は後を絶ちませんでしたが、ある時、ソ連がアララテ山の探検隊は米国のスパイであるとトルコ政府に対して主張したため、トルコ政府は同山付近への外国人の立ち入りを一切禁止してしまいました。
 そして1982年、ようやくその禁が解かれましたが、決定的な証拠は掴めないまま現在に至っているようです。