信仰・聖書・歴史・科学

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。(伝道者の書3章11節、口語訳)

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネの福音書5章39, 40節)

[Ⅰ]天国への道

 人は創造主の御姿を頂いて創造された優れたものであるから、永遠を思う思いを授けられた。自分がどこから来たのか、この世のいのちを終えた後どこへ行くのかに思いを巡らせる。そして、人類の歴史に思いを馳せ、宇宙の果てに思いを馳せる。豊かな地球にいのちを頂いた素晴らしい自分の姿をアダムがしっかりと見つめて、そのような自分たちを創造して下さった全能の主を信頼していれば、今の世界はどんなにか美しく素晴らしいものになっていただろう。人類はどんなにか幸せを享受していたことだろう。

 しかし、歴史に「もし、・・・」はない。創造主に反逆する罪の性質は、人類の始祖アダムから営々と受け継がれてきた。人類は与えられた頭脳を駆使して様々な、いわゆる「科学的データー」なるものを生みだし、それに真理を覆い被されて、目が見えなくなっている。永遠を思う思いを与えられた素晴らしい賜物を、その罪の性質の故に悪用して、実際の人類史を棄て去って何十億年、何百億年の訳の分からない途方もない時間の中に宇宙を置くことで、訳が分からないから魅力を感じるものと見える。

 何かの理由があって有名になった人であっても、或いは市井の無名の一個人であっても、人の死亡のニュースが報じられると関係者は「天国で安らかにお眠り下さい」と故人に語りかけたり、「天国に行った」という表現をしたりしていshinkou_seisho_1.pngのサムネイル画像るのを頻々と耳にする。進化論を信じている人がこのように言うのを聞くと、びっくり仰天である。「天国での永遠のいのち」と「偶然に湧いて出た生き物だと信じる進化論」という相互に相容れない、矛盾する二つの信仰が一人の人の頭の中で両立する摩訶不思議を人々は不思議とも思わないようである。

 天国への道はただ1本の狭い道である。イエス・キリストを「天国へ導く救い主だと信じる信仰」によってのみ、天国に行けるのであって、それ以外の救いの道はない。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)     

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイの福音書7章14節)

 イエス・キリストが地上に降りてこられて天国へ行くための福音を宣教された当時のユダヤ人律法学者・高等教育を受けた人々は、イエス様をキリスト(メシヤ、救い主、主)と信じないで迫害した。しかし、彼らは聖書(ユダヤ人に与えられた旧約聖書)「の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を」学んでいた。「永遠のいのちを探し求める」という「正しい目的」を持って、「学ぶべき正しい資料・聖書」を学んでいたのである。知的には本当に優れた人々だったのだろう。しかし、学んでも、学んでも、そこにイエス・キリストを見いだせなかったということは、結局は全く学んでいなかったということである。新約聖書の手紙類のほとんどを書いた使徒パウロその人もこの中の一人であったのであり、イエス様ご自身によって召し出されるまでは激しくキリスト者を迫害したのである。

shinkou_seisho_2.pngのサムネイル画像 「その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」福音を携えて地上に降りてきて下さったイエス・キリストの世界一悲痛なこの叫び声がジンジンと響いてくる。二千年を経た今もなお、同じことが起こっている。聖書(旧約聖書)を読んでいるだろうユダヤ教の人々は、イエス様をキリスト(メシヤ)と認めないので、新約聖書を聖書とは認めないのである。悲しいかな! 悲しいかな! イエス様のこの悲しい言葉が彼らの霊に届きさえすれば、彼らこそが本当は福音に最も近い人々であるはずであるのに。

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・・・ 中断してちょっとお喋り ・・・
 創造主によって与えられた素晴らしい聖書(旧約聖書)を読んで、永遠のいのちを探し求めていながら、全く聖書の本質を読んでいなかった当時の学者の話から、日本の「論語読みの論語知らず」という諺を思い出した。今の若い人には論語が何かさえ知らない人がいるかも知れない。孔子を始祖とする思考・信仰の体系が儒教で、東アジアで2000年以上強い影響力を持ち、私たち日本人の考えの根底にも儒教の影響が色濃く反映しているが、この教えの書が論語である。

shinkou_seisho_3.png 論語を読む人は教養人であるが、論語を開いて目を通しても内容を理解していない人を「論語読みの論語知らず」という。転じて、知ったような顔をしているが、物事の本質を理解していない、ということの例えに使われる。さしずめ、イエス様の悲しい叱責を受けた学者たちは、「聖書読みの聖書知らず」なのである。英語では、「A mere scholar, a mere ass.(ただの学者はただのロバ)」と言うが、英語では「ass・ロバ」とは「愚鈍」という意味で、この言葉を浴びせられた者は耐え難いほどの屈辱を味わうほど軽蔑の意味が込められた言葉である。

 

ちなみにイエス・キリストは格好いい白馬に颯爽とまたがってエルサレムに入城されたのではなく、お世辞にもかっこshinkou_seisho_4.pngが良いとは言えない子ロバに乗って入城されたのである。群衆の歓呼の賛美に迎えられたけれども。(マタイ21章2節-9節)

福沢諭吉が聖書に通じていたかどうか知らないが、『学問のすすめ』で興味深いことを書いている。「良いことを良いと考えることと、それを実行することとは別で、知っていて行うこともあり、行わないこともある。「医師の不養生」「論語読みの論語知らず」という諺もある。高尚なことを論じることと実際に高尚であることとは別のことであり、博識であっても高尚ということではない。」というようなことを言っている。                                      

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 残念ながら歴史的に聖書から一番遠い日本人にあっては、永遠のいのちが欲しいという人類共通の希望・夢は持っているのに、進化論を信じている人には実現には縁のない、消えていく幻でしかないから平気で「天国で会いましょう」などと言うのだろう。そして「学ぶべき資料・聖書」さえ無視して、天照大神の神話並みの評価さえしていないのではないだろうか?

[Ⅱ]創造主との契約を託された選びの民とそれ以外の民・異邦人

 宇宙・地球・人を無から創られた創造主は、創造の経過と人類の歴史を書物として与えられたのが聖書である。聖書がどのようであるかという説明をすることは、この項の目的から著しく逸脱するので、そのことは別の項で、順次学んでいく。
 「契約を委ねられた民は選ばれた民、そして日本人を含むその他の民は選択に漏れた異邦人」という認識で、ユダヤ人には選民思想が蔓延し、一方それ以外の信仰を持たない異邦人はのけ者にされた継子意識が喧伝されることがある。それはまさしく悪意の振る舞いであり、創造主の御旨ではない。優れているから選ばれたのでもなければ、劣っているから選ばれなかったのでもない(申命記7章6節-7節)。このことも順次学んでいく。

 キリストがお生まれになったエルサレム、すなわちキリスト信仰の発祥の地は、日本から見るとまさしく地球の裏側、最も遠い地球の果ての世界である。一番情報が届かない世界に私たち日本民族は生まれ、生活している。キリスト信仰が到達したのも、世界中でほとんど最後であった。ヨーロッパ諸国へは地の利があり、使徒パウロがローマやアテネに福音を述べ伝えている。アメリカに十五世紀末から住みついた人々はヨーロッパからの移住であった。したがって、いわゆる欧米人は福音に触れてから実に二千年を経過しており、ある意味で体臭になっている。一方、日本人の体臭は、八百万の神々、神道、儒教、仏教など、宗教のちゃんぽん料理を味わってきている体臭であり、異邦人中の異邦人、筋金入りである。
shinkou_seisho_5.pngshinkou_seisho_6.png 世界中に散らされていたユダヤ人が故郷に帰ってきて、1948年、イスラエル国家が建設された。まさに奇蹟であり、キリストの再臨の条件が調ってきているのである。世界中のクリスチャンが驚き、おののき、御再臨の近いことを予測した。この奇蹟の意味を理解しなかった鈍感な国は日本だけだったかも知れない。確かに、第二次世界大戦の敗北で、国土も経済も人々の心もボロボロであった。力は正義なりという論法の前に、戦勝国によって国の指導者たちが裁かれて戦争犯罪者という汚名の下に絞首刑になった、そういう時代ではあった。
 この国の新しい指導者たちがクリスチャンであったなら、この敗戦を聖書的視点から理解して、国を別の方向へと導いたことであろう。しかし、無残な瓦礫の処理が済んだ後は、日本は「経済復興」を第一優先に掲げたのである。人々の霊魂の問題は後回しになり、またもや聖書とは無縁の方向へと突っ走ることになってしまった。

[Ⅲ]廃墟からの復興・技術革新

 いつ頃からかは別として、日本人は非常に信仰心の篤い民族のようである。古来より地域毎に存在する数え切れないほどの土着の民族信仰、それに今も次々と加わっている新たな拝む対象、そして宗教として整備された神道、儒教、仏教、これら諸々の宗教が渾然一体となって不思議な調和を保っている。日本人が世界でも珍しいほど、従順で秩序正しい民族として支えてきた道徳・価値観・倫理観は、このような宗教観・教えに由来すると思われる。

 shinkou_seisho_7.png第二次大戦後、戦勝国が日本を占領しにやってきた。人間爆弾・特攻隊作戦を繰り広げた野蛮な、好戦的な民族であるから、上陸したら陸地で戦争が繰り広げられるものと予測して上陸したのである。ところが、日本人は実に従順で、占領軍を鄭重にもてなしさえしたのである、ちょっとした小競り合いはあったものの。信じられない驚きであったことが記録に残っている。天皇のひと声「玉音放送」に、全国民が文字通り地面にひれ伏し、そして天皇に従ったのである。悪いのは軍部であり、天皇は悪くないという論理がいつの間にか日本人の共通見解になった・・・何故なら、天皇は拝む対象の「神」であったからである。

 2011年3月11日の東北地方を襲った地震・津波による大災害の時にも、民衆の行儀良さ、忍耐心、秩序は、外国の人々を改めて驚かせ、称賛の的となった。これが日本人に体臭として染み付いた道徳観、倫理観そして信仰である。
 このような信仰に支えられた日本人は、一方では極めて勤勉であり、よく働きよく学ぶ国民性を持っている。第二次大戦後の混乱の中で勤勉と頭脳の良さで技術革新の遅れをあっという間に取り戻し、廃墟から復興し立ち直った日本人の霊魂は、それまでの路線を益々強固にしていった。明治維新後、鎖国の遅れを取り戻すために邁進した日本人は武器による戦争へと突っ走ったが、今度は経済戦争に駆り立てられたのであった。戦後、日本に遣わされたキリスト教の宣教師の努力も、その労苦の大きさを思うとき、残念ながら深い根を下ろさなかった。

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[Ⅳ]科学という新たな信仰

 日本人は、八百万の神々への信仰に加えて、昔から勤勉・実直であった国民性が拍車を掛けて科学が得意であろうがなかろうが関係なく技術革新という新たな、しかも実生活に影響を及ぼす堅い信仰を身に付けてしまった。拝む対象が多ければ多いほど「御利益」が多いかの如き恐ろしい信仰心が、日本列島を覆っている。このような宗教観に覆い尽くされて、科学信仰が根を張り、見事な枝振りの大木に育ち、科学の仮面を被った進化論がいつの間にかその大木に見事な接ぎ木をして本家本元を食い尽くして大成功を収めている。そして、これらが科学の仮面を被った思想であり、宗教であることが人々に見えなくなってしまっている。

 

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 「進化論は科学であるから、信仰とは無関係である」という的外れの信仰が、残念ながら日本のキリスト教会に根を張り始めている。仮装行列の先頭を切って走るのは、科学という美名の仮面を被った進化論であり、それがどういところに根を張るか、イラストはその本質をあぶり出して描かれている。進化論の太い幹はどこに根を張っているか、じっくり観察するとよく分かるだろう。岩と、棘が勢いを持って蔓延っているいのちのない場所に、「科学の仮面を被ったもの」が太い根を張っているのである。素顔をいっさい見せないので、仮面の下の顔が悪魔か、獰猛な狼か、真に創造主を敬愛する顔か、しかと見極める霊的な識別力と知恵を頂かなければならない。

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。
(ピリピ人への手紙1章9節-11節)

 shinkou_seisho_10.png科学に似て非なる進化思想は科学ではなく、何が正しいか間違っているかを人が決定する思想で、図に描かれているように進化論の城にはヒューマニズムの旗がはためき、様々な悪の風船が翻っている。この進化思想・宗教の城を堅く立てあげるためには、キリスト信仰の土台である創造の城の基礎を叩き潰すのがもっとも効果的であり、この土台が崩れたら、上に立てられた創造論の城全体が崩れ落ちてしまう。キリスト教会・キリスト者が、この進化思想の本性を見破ることが出来ないで、それから派生する風船だけを攻撃していても、進化の牙城を破壊することも、ましてその土台を突き崩すことなど夢の又夢である。

 難題を解決するためには、進化論の城に向けて弾丸を撃ち込めば多少は城を崩すことが出来るだろう。城本体への攻撃もさることながら、進化論の土台を攻撃して突き崩さなければならない。進化論を攻撃することは福音宣教に役立たないどころか、進化論は福音宣教に立ちはだかる大きな妨害物なのであり、何が何でも突き崩さなければキリストの城は堅く立てない。

[Ⅴ]信仰・聖書・人類史・科学・個人の人生

そのとき、あなたは、【主】を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。【主】が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり、公義の小道を保ち、その聖徒たちの道を守る。そのとき、あなたは正義と公義と公正と、すべての良い道筋を悟る。知恵があなたの心に入り、知識があなたのたましいを楽しませるからだ。思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。(箴言2章5節-12節)

 本来、キリスト信仰と聖書は切り離せるものではないのに、一体として捉えきれないで切り離す人々が大勢いるようで、信徒たちが陥りやすい誘惑の一つである。キリストを信じる信仰を頂いた者は、聖書を創造主の著書として敬い、どんな間違いも全く無い信仰の書なのである。

 創造主が下さった信仰は、聖書と融合して渾然一体となって、人類の歴史、人々の生活、科学など全てのことの土台となっているのである。重要な土台をどのように図示するか困難であるが、本来、創造された時点からの宇宙・地球の歴史、そして人類の歴史は、この土台の上に立って約六千年の営みは築かれてきた。その人類は主に導かれて生活し、文化を築き、科学研究に励み発達してきた。そして、各個人は大なり小なり科学の恩恵を受けて昔も今もこの地上でのいのちを享受している。
 人類はその初めから今に至るまで、日々の生活も、科学も、創造主に従い、支えられて、信仰と聖書の土台の上に全てが無事に存続しているのである。進化論にすっかり毒された世界観、人生観に泥まみれになっているので、信仰・聖書・歴史・人生・科学をバラバラに考える習性が根付いている。しかし、この宇宙に、世界に起こることには偶然は一つもないのである。全て、創造主の御手の中で起こることであり、主の許可なしには雀一羽でも落ちることはない。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。(マタイの福音書10章29節-30節)

shinkou_seisho_11.png 創造主が与えられた最も大切な戒めは、創造主を全身全霊で愛することであった。愛するということを理解しない人類はあれかこれかと迷い続け、主に反逆し、愛することを知らない人として歴史を生きてきた。しかし、何をさておいても最も大切なことは主を愛することであると、主イエスは教えられた。

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。(マタイの福音書22章37節-38節)

創造主がどのような方であり、私たちとの関係がどういうものであるかを知的にも霊魂でも体験的にも知ること、私たちが塵から造られ、慈しみと愛で包まれて生かされ、守られていることを腹の底から納得すること、主の戒めを守って生きることが最も幸せな人生を生きることが出来るのだと、聖書を本気で読めば自然に体得できることである。

きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、【主】が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。(申命記4章40節)

 愛する両親や妻、子どもや自分自身のことよりも、何事においてもイエス・キリストのことが優先順位の上に置かれなければならないということは、献身者は簡単に言うが、実際に実行するのは極めて困難である。又、十字架の意味がこの世で誤解されているのは仕方がないとしても、教会で誤解されていることがあるのは嘆かわしい。自分の落ち度によって、自分の責任で起こったことは十字架でも何でもない。それは、ただの不正,罪等の結果で、咎でしかない。十字架とは主が特別に召し出して、与えられた重荷である。イエス・キリストが負われた十字架は最高の重荷であるが、イエス・キリストは全く罪のない方であったのである。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14章26節-27節)

[Ⅵ]結語

心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3章5節-6節)