キリスト教の成長を阻むもの

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙 三章二十二、二十四節)

[Ⅰ] 序

 神は、創造なさった人に御自身の性質を惜しみなく与えられたことを、「ハーザー」12月号「神のかたちを頂いた」に記載した。人だけに与えられた優れた頭脳は、無限の可能性を秘めていることについても示唆した。
予告編でお知らせしたように、「キリスト信仰 & 聖書」と「学問 & 自然科学」との関係について、様々な角度から考えていくことにする。

[Ⅱ] クリスチャンとは?
(一) キリスト信仰の始まりと歴史的流れ
 人類はその優れた頭脳を思うままに駆使して、様々な学問が発達した。中でも自然科学の発達には目を瞠らせるものがある一方、人文科学的、文化的、人間学的分野の学問は後れを取った。

image2.png キリスト信仰の根を辿ると、二千年前に突如として降って湧いたものではない。人類の始祖アダムが、創造主と顔と顔を合わせて親しく話をした祝福を自ら破壊したことに端を発している。それ以後、創造主・ヤハウェは慈愛深く人類を見守ってこられ、多くの国民の父(創十七・5)となるようにアブラハムを呼び出され、モーセに律法を託され、こうして神を敬う信仰がこの民族を通して延々と受け継がれてきたのである。

 系図的には、そのアブラハムの家系にイエス・キリストが降誕され、十字架上の死→埋葬→復活→昇天によって「福音」信仰は中東で築かれ、西洋へと広がり、二千年の歴史を経て、社会の土台として深く根を下ろしたのである。十五世紀以降、アメリカ大陸でも信仰が広められたが、アメリカでのキリスト教は、信仰を持った多数の人々が移住して、そのまま定着しただけであるので、土台はヨーロッパと同じ歴史を持っている。

 一方、日本では古い昔から土着の信仰があり、また神道が国家信仰として根付き、渡来した仏教文化も広がり、これら各種の信仰や教えが日本的な融和精神の中で日本人の心に深く染み込んできた。こうして日本的な文化、人文科学や人間学が豊かに育ったので、それも一因かも知れないが、自然科学においては西洋に後れてしまった。世界中が土地の分捕り合戦などという愚かで醜い争いを繰り広げていることなど知る由もなかった。ふと気がついて無我夢中で合戦に首を突っ込んだ挙げ句に数限りない爆弾と二発の原爆で国はボロボロになって、学問や教育に目を向ける余裕もなくアップアップすることになった。

 十六世紀に伝来して以来、迫害によって消えかかっていたキリスト教は、戦後、宣教師が多数送られてきて息を吹き返した。しかし、かつて分捕り合戦に首を突っ込んだのと同様に、メッキ工法が施され、付け焼き刃的伝道・教育を行い、腰を据えて土壌を耕す労を執らないままに長い年月が経った。実態は、「イエス・キリスト」のお名前とクリスマスだけが社会に知られても、信仰の重要な土台が築かれていないのである。

(二) 「クリスチャンとは?」の常識

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 イラストに示した聖書の教えは、正しく理解すれば大切な教えである。しかし、み言葉を曲解し骨抜きにした種を日本という荒れ地に撒いて、キリスト教の成長を阻んでいるのである。

*ただ信じるだけ
 福音・救いの基本は、人類の救いのために神の子であるイエス・キリストが地上に降誕されたこと、十字架の苦しみと死によって人類のすべての罪を洗い流されたこと、そしてキリストを救い主と信じるだけで「正しい者・聖である者」と認められ、天国に還ることが出来るのである。
信仰の出発点は「ただ信じる」という条件、ただ一つである。厳しい様々な規律、律法を守ったり、善行を積んだりすることは救いの条件でないのは確かである。しかし、クリスチャンはどうやらこの定義を曲解している気配がある。「真に、心から信じる」ならば、確かにそれだけで充分なのである。「心から信じる」ことが難しいから,出発点の曲解から一歩も進まないのだろう。(ロ-マ十・13)

しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。(ガラテヤ二・16)

*「ゴメン」と言えば万事解決
 「心で信じ、口で告白する」(ローマ十・9, 10)だけで救いが得られ、そしてキリストの贖いは完全なのである。このみ言葉はしばしば拡大解釈されて、「ごめんなさい」と言えば何でも、何度でも赦されるかのような誤解が生じているようである。(マタイ十八・21,22)

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ一・9)

*弱くても、愚かでも良い
 神の愛は誰にも平等に注がれ、弱い者に限りない慈しみを注がれる。そして、弱虫で良い、人生の負け犬だと、自身でも思い、社会からも思われることに甘んじている。(第一コリント一・27)

*他力本願・頼みさえすればよい(マタイ二十一・22)

(三) 霊魂体の真の救いに至る道を邪魔するもの
image4.png*「信じるだけ」
 「信じるだけ」で全て完成し成熟したクリスチャンになると錯覚して、すぐに「伝道!」と飛び出すべきだと思ってしまう。御霊に満たされ成熟する以前に荒野に飛び出すと、霊魂は疲弊してしまう。

恵みによってクリスチャンになっても、聖書を熟読せず、よく考えないと成長できず、いつまでも弱いままで留まってしまう。世の中には信仰を攻撃する力が強烈に働いており、四方八方から責め立てる。図のように、聖書六十六巻、特に創世記をしっかり学ばないから結局、無神論に襲われ、聖書を科学で証明すべきだというヒューマニズムに囚われる。相対的価値観思想の蔓延によって、結局は進化思想にずぶ濡れになり、折角信じたのに、価値観の変換に至らないため、物質・お金が大切という価値観が日常的に押し寄せてくる。救われた後で、熟成する期間が必要なのである。旧約の知識を充分持っており、創造主への信仰・畏敬の念においては誰にも負けなかったパウロでさえ、待ちかねていたメシアはイエスであったのだと目が開かれてから、実に三年間の熟成期間を持ったのである。(ガラテヤ一・17,18)

*罪の理解の欠如
 罪について道徳的な理解をして本当の罪が分からないまま救いの入口を通過し、そのまま留まっていると真の悔い改めが未達成になってしまうので、霊・魂・体の真の解放に至らない。「罪」の意味も「悔い改め」の意味も理解していないと、「罪を悔い改めさえすれば赦される」という意味が理解できるはずがない。「悔い改め」は重い意味を持っており、口先だけで「ゴメン」と言うことでも形だけ「崇める」ことでもない。すべてをご存じの神にお世辞が通用すると思っている傲慢である。(ガラテヤ六・7)

そこで【主】は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。(イザヤ二十九・13)

*弱さの内に働かれる御霊
 クリスチャンは弱虫だと、一般的に思われているようである。しかし、イエス・キリストはその弱さ故に十字架に掛かられたが、強いからこそ十字架で全人類のすべての罪を拭い去ってしまわれた。全てをキリストに委ねたときに、その強さがクリスチャンの中に働かれるのである(Ⅱコリント十三・4)。自我が強いと内側の御霊が充分働いて下さらないのである。罪人である私たちの恐ろしい自我が弱められたときこそ、内側の御霊が働かれて強いのだという真理は忘れ去られているのである。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。(第二コリント十二・9)

*キリストは御用聞きか?
 欲しいものがあったら頼めば与えられると、様々な角度からキリストは言われた(ルカ十一:5-13)
しかし、欲しいものを自己中心的に注文すれば、その我が儘は全て叶えられるという意味ではない。神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いて下さるのである。そして、キリストご自身もまた、天の父のしておられることを見て、それをなさったのである。(ヨハネ五・19)

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(第一ヨハネ五・14)

*相対の世界、進化論的思想
 日本人は長い歴史を通して、相対の世界、進化論的考え方の世界に生きてきており、絶対という考えがそもそも存在しない。キリストを信じたからと言っても、そこから抜け出すのは至難の業である。そして、進化論的思想が骨の髄まで染み込んで「人間中心思想」の強い人間のまま、クリスチャンとしての成長を阻まれるので、内住のキリストが強くなりにくい。

[Ⅲ] 障碍の壁を叩き割る

(一) ヒューマニズムからの解放
image5.png 絶対のない社会に生まれ育った日本人にとって、ヒューマニズムは座り心地の良い座布団である。聖書の真実を「見ざる」、学問・論理は「聞かざる」、そして創造・奇跡を「語らざる」の三ザルを決め込んで、全ての真実を覆い隠して生きることは、真実の素晴らしさを知らない者にとっては、偽りの快適が一時的に得られるようである。

 聖書は、絶対である創造主の著書であるから、ヒューマニズムの真反対の哲学である。人類の始祖による原罪は、ヒューマニズムに根ざすものであった。そのために地球が呪われ、死が入ったのである(創二・17、創三章)。その厳しさは、律法を預けられたモーセでさえ例外ではなく、神が聖であることを示さなかったという、ただその罪故に約束の地に入れてもらえなかった(申三十二・51、52)。善王の誉れ高いウジヤ王もまた例外ではなく、主の定められた規律を乱した故に、不治の皮膚病に襲われるという厳しい処罰を受けた(Ⅱ歴代二十六・16-21)

(二) 知的な学び・弁明に備えよ
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 学びを深めていた律法学者に関して、キリストが形だけの学びをお叱りになったのであるが(ヨハネ五・38)、学び自身を否定なさったと誤解し、また「信じるだけ」という恵みを理解せず、いつの頃からか学び・教育を否定的に見る雰囲気がキリスト教会に漂っているようである。ところが、聖書は学びを否定するどころか、「初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして」(ヘブル六・1)きちんと学びをするようにと勧め、また弁明に備えよとも言っている(Ⅰペテロ三・15,16)

きちんと学び、論理的に考え、思考を巡らし、様々な攻撃にびくともしないクリスチャンになるように、パウロは神のすべての武具をまとめて示して、弁明に備えるようにと言っている(エペソ六・10-18)

[Ⅳ] 結語
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう (詩篇 三十二・8)


 

出典元:ハーザーNo.255,2017年1月号