ガリレオ・ガリレイ

初めて自然を数学で記述した ガリレオ・ガリレイ

時代の犠牲者

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 近代の初め頃から、ピタゴラスやプラトンの思想とキリスト教の思想が結びついた「新プラトン主義」という考え方が人々の気持ちを捉えるようになった。ガリレオ・ガリレイの先輩天文学者であるコペルニクスやケプラーの場合にも、アリストテレスの考え方ではなく、新プラトン主義の考え方で宇宙を理解しようとする新しい科学の胎動だったのである。その根拠には、この世界は「数学的なものとして」神によって造られたという考えが働いていたのである。

 このような近代科学の幕開けに生を受けたガリレオ・ガリレイは、信仰者であると同時に、群を抜いて優秀な科学者であったために、時代の犠牲者になってしまった。キリスト教についても科学についてもその本質をよく理解しないまま、また、実際にガリレイと人々の間に何が起こり、なぜ宗教裁判にまで発展したのかも知らないままに、キリスト教会の迫害をものともせず抵抗した科学者の象徴としてまつりあげられ、科学とキリスト教は相容れないという「社会常識」の構築に利用されてしまった。

近代科学の出発点となった研究法

 Galileo_2.jpg一五六四年、ガリレオ・ガリレイは七人兄弟の長男としてイタリアのピサで生まれた。子どもの頃は音楽に興味を持ち、また生涯を通じて詩と文学を非常に愛好した。父の希望を入れてピサ大学の医学部に進学したが、医学よりも数学に興味があることに気がついた。この医学生時代、十九歳の時に、礼拝堂のシャンデリアの揺れ方にヒントを得て振り子時計を製作して実験し、等時性(振り子の振れる周期は振れ幅の大小に関わらず一定)を数式で示した。

Galileo_3.jpgガリレイの学問上の出発点である運動学のもう一つの逸話は、ピサの斜塔の上から重さの異なる二つの物体を落とすと、地面に同時に落ちたという有名な話である。それまでは、「十倍重い物体は十倍速く落下する」というアリストテレスの説が信じられていた。「物体の重さによらず、落ちる速度は一定である」ことを発見したのは事実であるが、ピサの斜塔の実験は作り話であるようだ。

 ガリレイは二十五歳でピサ大学数学講師に、二十八歳でパドヴァ大学数学教授となった。自然世界を初めて数学で記述したガリレイの研究方法は、近代科学の出発点となった。古くから、数学と自然世界は別物と考えられていたが、数学は自然現象を説明する道具としての役割を果たし、近代科学の大発展を後押ししたのである。

ガリレイの宇宙観

Galileo_4.jpg 望遠鏡が発明されるや、ガリレイは一六〇九年、すぐに自分で望遠鏡を製作し、翌年には木星の四つの衛星を発見した(後世、ガリレオ衛星と呼ばれている)。一六一三年には『太陽黒点論』を刊行した。ガリレイが宇宙や自然をどのように見ていたかが、一六二三年に出版された『偽金鑑識官』に次のように書かれていて、近代科学を生み出す上でどういう役割を果たしてきたかが伺われる。

 「哲学は、目の前にたえず開かれているこのもっとも巨大な書(宇宙)の中に書かれているのです。しかし、まずその言語を理解し、そこに書かれている文字を解読することを学ばない限り、理解できません。その書は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学図形であって、これらの手段がなければ、人間の力では、その言葉を理解できないのです。それなしには、暗い迷宮を虚むなしくさまようだけなのです」

 ガリレイが宇宙を書物になぞらえたその書物とは、書物一般を意味していたのではなくて、「聖書」を意味していたのである。つまり宇宙は一つの書物であって、そこにわれわれは知識を読みとることができる。しかもそれは数学の言葉で書かれた書物であるから、まず数学を学んで、数学の言葉で読み取るのでなければこの宇宙という書物を理解することはできない。哲学という言葉は知識を指し、この場合には「自然科学」を意味している。

宗教裁判との闘い

 新しい学問を生み出す活力を失っていた当時の大学で、ガリレイは異色の存在であった。「真理を求めるならば、権威に立ち向かう勇気と知恵を持つべき」という父から受け継いだ信念を貫き、歯に衣着せぬ辛辣な批判を公衆の面前で展開した。「議論屋」とあだ名を付けられたが、真理を追究する科学研究において必須の条件である「既成観念を疑い論争する」始祖となったのである。 ガリレイは大学でも学会でも総スカンを食らい、徹底的ないじめにあった。一方、世間的名声は高まり、「当代一流の自然科学者」として、一般社会でも宗教界でも支持者が増えた。これが、同僚教授の反発と嫉妬をさらに深め、宗教裁判の()に陥れられていったのである。

 太陽黒点の発見をめぐる天文学者・神父との先陣争い、天動説批判に加え教会批判をしたと見せかける捏造などで、ガリレイを論争の泥沼の中に引きずり込んだ。
 こうして、ガリレイの後半生は「地動説」をめぐる、あまりにも有名な宗教裁判との闘いであった。一六三二年、『天文対話』を出版したが即発禁となり、翌年、六十九歳の時、第二次宗教裁判で終身刑の宣告を受けたが、軟禁にまで減刑された。
 この裁判の法廷を立ち去るときに、「それでも地球は動いている」とつぶやいたという逸話が残されているが、もちろんありえないことである。実際は、地動説破棄を宣誓したガリレイは「この世で自分は死人である」とつぶやいたという。幽閉の身で、五年後に大作『新科学対話』をオランダで秘かに出版しているので、ガリレイは死んだのではなく、「それでも地球は動いている」という逸話が作られるだけのものを内に秘めていたことが伺われる。

ガリレイの理念

 一六三七年に失明し、五年後、一六四二年、七十七歳の生涯を閉じた。死後も正式な埋葬許可が下りなかったなど弾圧は峻烈を極めたが、一九九二年、正式に破門が解かれた。  
ガリレイの科学者としての理念は、著書『天文対話』の冒頭、後援者であったトスカナ大公あての献辞の中にいかんなく表れている。「この書物(宇宙)で読むことはすべて、全能の造り主の御業であって、それは、この上なくすばらしいことですが、中でも造り主の見事な御業をもっとも明らかに示すものには、最大の価値があります」



(ご案内)この投稿内容は、以前、「サインズ」(福音社)に連載したものです。