野口英世

人を()きつけ、愛される不思議な性質を持っていた野口英世。人に援助を頼むだけでなく、彼自身も人々の苦しさを助けるために全身全霊で尽くした事例が数多く記録されている。

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愛されて、愛する医者となった野口英世

 

賢母、野口シカ 

nogushi_hideyo_1.jpg 戊辰ぼしん戦役せんえきの敗色濃い明治元年、びゃっ虎隊こたいの少年たちが自刃し果てた無惨な事件の余波が冷めやらぬ明治九年、この風土を身に背負って、野口清作は極貧の農家に生を受けた。一歳の時に囲炉裏いろり大火傷だいやけどを負い、左手の指は醜く焼けただれ、一本の棒になってしまった。「テンボー」「すりこぎだぁ!」といじめられ、小学三年頃から学校を嫌い、登校拒否になった。
 優れた業績を挙げた人の背後には、賢く愛に満ちた母の姿が見えることが多いが、野口シカは後世の人々にその名を知られるほどの賢母で、清作の苦しみに気づいても感傷におぼれなかった。母の不注意で済まないと涙しつつも、だから学問で身を立てなさいと励ましたのである。

 二人の大恩人

  清作が南アメリカ、西アフリカで人々を助ける医者・細菌学者となるには、この母以外に野口を助けた人々が大勢いるが、中でも親以上の愛情を注いだ二人の大恩人がいた。この二人がいなかったなら、野口英世は決して世に出ることはなかっただろう。一人は猪苗代高等小学校の教頭の小林栄で、清作の並々ならぬ能力を見抜いたのである。食べるものにも事欠く貧農の息子が高等教育を受けるなど常識外れも度が過ぎていたが、教師の使命感と能力を見抜く洞察力、そして母親の秀でた決断力により、清作は知的な世界に船出したのである。
 世間の冷たい眼に傷つき悩み、貧農では卒業後の希望も見いだせない。左手はあっても物を握ることさえできない。いっそ小刀で五本の指を切り裂こうかと思い詰めた、と作文に書いた。この作文が小林と生徒たちの心を動かし、募金により手術費用が集められた。十年以上「すりこぎ」状に固まっていたのが、不満足ながらも使える「指」になり、それがきっかけとなって清作は医学の道を志したのである。
nogushi_hideyo_2.jpg 小林は生涯にわたって野口に無私の愛を注ぎ、通常の父親でさえ及ばない物心両面における支援を与えた。実際、野口は小林夫妻を、父、母と呼んで終生敬い、大切にした。後日、坪内逍遥しょうようの『当世書生気質かたぎ』の登場人物、自堕落な野々口精作と、悪い生活態度のみならず名前が似ているので、清作は強い衝撃を受けて恩師小林に相談し、世に優れるという意味を込めて「英世」と新しい名前を付けてもらったのである。
 nogushi_hideyo_4.jpg極貧の家庭の出身であり、常に隠していた左手の故に、幼い時から孤独の影を背負い、勉強だけがそれを忘れさせた。その後、手術を受けた医院に書生として住み込みで働きながら、約三年半、医学の基礎を学んだ。超人的な努力により実力を蓄えれば蓄えるほど嫉妬しっとの対象となり、執拗しつようないじめにあった。そうした苦しみの中、一八九五年、十八歳で洗礼を受けたことが、日本基督教団若松栄町教会の最古の記録文書「信徒人名簿」に記されており、教会の奉仕を熱心にしたようである。この書生時代に、もう一人の大恩人、高山歯科医学院(現・東京歯科大学)の講師、血脇ちわき守之助と知遇を得て、その才を見いだされ、大きな愛で包まれ、生涯支援を受け続けることになった。

 

悲惨と栄光

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 野口英世は通り一遍の立志伝中の人ではなく、不可思議な人物で、悲惨と栄光が交錯する波瀾はらんの人生を送った。数か国語をこなし、また、通常の教育を受けなかったのに、上京して一年余りで難関の医術開業試験に合格した。そして優れた頭脳を駆使して一生懸命学び、生涯を医療に捧げたのである。
 医者や学者は謹厳実直であるはずだという常識は野口には全く通用せず、金銭面のだらしなさはピカ一である。小林が月給十二円から十円を餞別として与え、借金その他も合わせ約四十円を携えて清作は上京した。医師免許の筆記試験には合格したが、わずか二か月間でこの大金を放蕩ほうとうで使い果たしてしまった。臨床試験を受けるために、さまざまな経緯を経て月額十五円もの援助を血脇から与えられた。後日のことであるが、清国でのペスト対策のため国際防疫班に選ばれ、支給された支度金九十六円を放蕩で使い果たした。これを血脇が資金を工面して埋め合わせるなど、驚くほど多くの事例がある。

 愛し愛された野口英世

  野口は人間的に人を惹きつけ、愛される不思議な性質を持っていたようで、アメリカでもフレスキナー教授に愛され、格段の恩義を受けている。窮状を訴えて野口に頼まれると、友人知人たちは苦労してでも何とかしてやらなければ、という気になったようである。
 人に頼むだけではなく、野口自身もまた人々の苦しさを助けるために全身全霊で尽くした事例が数多く記録されている。例えば、医者になって東京にいたとき、小林夫人の重病の知らせに無理をして休暇を取って猪苗代に見舞い、医者として、また看護婦や下働きの役割まで、一人で八役をこなして枕辺で渾身こんしんの看護をした。こういうことは、友人たちのさまざまな苦難に対しても変わらず、すべてを犠牲にしてでも人々に尽くす人であった。方々で多額の援助を受け、また借金をしたそのお金を、右から左に遊蕩に使う一方で、人々に大盤振る舞いをしたのである。

 nogushi_hideyo_6.jpg 野口は明治四十四年、アメリカ人メリー・ダージスと結婚した。彼女が良家の出身ではないので、栄誉ある博士の妻としてふさわしくないと思われ、野合であるとか、水商売上がりの計算高い結婚だとか良いことは言われなかった。しかし、野口は「最愛の妻メリー」に全財産を遺贈するという遺言書を残し、メリーへの愛を明らかにした。野口の死後、メリーは数年にわたって野口すえ(姉)と小林栄に送金をしているが、これはメリーの自発的な心情から出たものであり、野口夫妻の愛の有り様を語る逸話である。

 語られざる野口の功績

  海外で突っ張り通して生きた野口を、日本では評価しない人も多く、またアフリカやラテンアメリカでの活躍ぶりがほとんど語られていない。後世の微生物学の進歩により野口の研究者としての業績の一部が否定されたので、業績すべてを否定する人さえ出る始末である。
 しかし、否定されている黄熱病研究に関しても、突破口を見いだしかけていたようである。また、病理学・血清学的研究、末期神経梅毒患者の脳標本で梅毒スピロヘータを発見したことは著名であり、何よりも見放されていた国々の多くの患者を救った功績は大きい。最後に死ぬことになってしまうアフリカ行きも、体調がすぐれない状況下、使命感に燃えて危険を承知で行ったのである。黄熱病研究が行き詰まっていたことから自殺説まででっち上げた人々もいるが、野口がその後の計画を立てていたことから自殺などあり得ないことは明らかである。
nogushi_hideyo_7.jpg 野口の心を伝える小さな逸話がある。ニューヨークの街角で、すれ違いざま「ジャップ!」と浴びせかけられて、野口はそれをとがめた。ロックフェラー研究所の野口と知り、驚いて謝った男に野口は言った。「ロックフェラー研究所の野口だから、その言葉を使っていけないのではなく、一人の日本人に対し、言ってはならない言葉なのです」
 一九二八年五月、野口英世は西アフリカ、ゴールドコーストのアクラにて五十一年の生涯を閉じた。野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された(ヤング博士自身も二十九日に黄熱病で死亡)。
 六月、ニューヨークのウッド・ローン墓地に埋葬された。墓碑銘には「科学に献身し、人類のために生き、人類のために死す」と記されている。