ルイ・パスツール(前編)

近代医学を築いた人

生命は生命から

誰も知らない人がいないほどに偉大な科学者であったパスツールは、致死率の高いコレラや狂犬病など、恐ろしい伝染病のワクチン療法を開発した。また、生物は自然発生しないこと、「生命は生命から」という不滅の大原則を実験的に証明し、この論争に終止符を打った。方々の大学の教授を歴任し、名誉の賞をいくつも受けたり、自身の名を冠した研究所が建てられたりして、パスツールは世の称賛を浴び、栄光の人生を歩んだだけの人に映るだろう。そして、後世の私たち、特に生物学者にとっては近寄りがたいほど偉大な大学者なのである。

両親の感化

 十九世紀という時代背景の中におけるこの輝かしい功績の前に、パスツールの出生や生い立ちは違和感を覚えるかもしれない。パスツールの遠い祖先は農奴階級の百姓であったが、曾祖父が九十六フランを払って自分を買い戻して自由の身になった。そして、牛や羊の生の皮をなめしてやわらかくする革なめし工場を建てて家業とし、それはパスツールの祖父、父まで継承された。一八二二年(遺伝学の祖メンデルも同年生まれ)、近代医学の幕開けを迎える前、フランスの小さな町、皮の臭いの漂う「革屋通り」(現在は「パスツール通り」)でパスツールは生まれた。

 父はナポレオン時代の誇り高い下士官で、非常な勤勉家でもあった。母は働き者で優しく、パスツールが人類愛に目覚め、根気よく努力してさまざまな功績を挙げることができたのは、この両親の感化によるところが大きいと思われる。

地道で意欲的なパスツール

Pasteur_1sthalf_1.jpg 学問や芸術の世界で優れた業績を遺した人々は、往々にして幼時からその才能が現れるが、パスツールの場合は幼少の頃から才気煥発の少年であったという話は残っていない。それどころか、自然科学に進むだろうという片鱗へんりんさえなく、数学も化学も中程度、あるいは中の下、「可」の評価であったと記録されている。少年時代のパスツールが唯一才能を発揮していたのは絵画で、特にパステル画が得意であった。

 成績はふるわなかったが、学校長は「規則正しいこと」と「強い熱意を持って仕事をきわめて正確に行うこと」が傑出していると特記している。そして、この貴重な性質をできるだけ伸ばして高等教育を受けるように励まし、パスツールはエコール・ノルマル(パリ高等師範学校/当時の最高学府)に入学する志望を抱くに至った。両親も遂に決心して入学準備のために十六歳の息子をパリに送ったが、これは大失敗に終わった。数週間でひどいホームシックにかかり、迎えに来た父に連れられて家に帰り、生家のあるアルボアの学校で絵の勉強を始めた。何があったのかはよく知られていないが、この時代のある友人は、自分の体の弱さも言えなかったような、内気で引っ込み思案な彼の性格のせいであるとしている。

Pasteur_1sthalf_2.jpg この挫折体験は意外にも尾を引かなかった。それは、頑張って「名を上げ、身を立て」ようとする上昇志向、両親の愛情豊かな励ましと、前記の学校長が総括したような性格、そして何よりも勉強したいという意欲がパスツールを立ち直らせたためだろう。

 文科の大学入学資格試験に合格し、中等学校の助教師に任命され、一八四二年、二〇歳のとき、科学の大学入学資格試験に合格した。パスツールの志望が文科から自然科学分野に固まった経緯は、わかるようなニュアンスもないではないが、これといった理由は明確には書かれていない。続いて、エコール・ノルマルを受験し、合格したが、合格者二十二名中十四位の成績だった。パスツールは合格順位が一生付いて回ると考えたので入学せず、一年後の一八四三年に再受験し、四番で合格して入学した。

専攻は化学

 Pasteur_1sthalf_3.jpgエコール・ノルマルに入学後、パスツールが専門として選んだのは生物学でも細菌学でもなく、化学であった。この時期にソルボンヌ大学教授、ジャン・デュマ(有機合成や蒸気密度から原子量を決定)の化学の講義を感激して聴いたが、後に生涯の友人ともなった。
 ブドウが発酵するワイン(だる)の中で見つかった酒石酸の結晶を光が通過すると、化学的には全く同じ化合物であるのに、光線を屈折させるものと、全く屈折させないものがあることはすでにわかっていた。パスツールは化学的に同一でありながら物理的性質が異なるという現象に興味を抱き、この理由を遂に解明するに至った。一八四八年、「分子構造の不相称の研究」により、英国王立協会よりメダルを受賞した。弱冠二十六歳の若さで、そういう意味では、遅ればせではあったが、やはり、「栴檀(せんだん)は双葉より(かんば)し」であった。 

運命の人マリー・ローランとの出会い

翌年、彼はストラスブール大学の化学の講師となった。そして、学長の娘、運命の人マリー・ローランと出会った。出会ってからわずか二週間後に、パスツールは学長に手紙を出して、令嬢との交際許可を願っている。それには、「父の職業、母はすでに亡いこと、家に財産はなく、持っているのは健康と正しい心と大学の地位だけ。研究歴、研究論文の写し、将来も化学研究に専念する心づもり、ビジョン、見通しなど」が正直、率直に書かれ、巧みに自己紹介をしている。

 そして、マリーには、「どうか急いで決断を下さないで⋯⋯。表面上は冷たくて内気で、あなたを不快にしているだろう僕が⋯⋯」と切々と愛を訴え、一方、実験室を恋故に投げやりにしたことを、「あれほど結晶が好きだったのに、結晶もあなたにはかなわない」と書いている。こうして結婚したマリーは、科学者の妻としてこれ以上は望めない伴侶であった。科学上の問題を語り合い、応援をし、最高の協力者となったのである。
 二人は三人の子どもに恵まれて、パスツール三十一歳の時、レジオン・ドヌール勲章(くんしょう)を受けた。一般にもよく知られている生物学分野での数々の業績や、功なり名遂げた後の葛藤(かっとう)、苦難については、後編でご紹介する。