ルイ・パスツール(後編)

Pasteur_2_1.jpgパスツールの名が後世に残ったのは、功なり名遂げた後も、神から与えられた使命に誠実に従い通したことにあるのだろう。彼は最期まで神の声に耳を傾け、人々の悩みに真摯(しんし)に応え、心を砕いて助力を惜しまなかった。

近代医学を築いた人──ルイ・パスツール

 酵母菌・乳酸菌の発見

Pasteur_2_2.jpg リール大学の教授であったパスツールのところに、アルコール製造をしている一人の工場主が相談にやってきた。醸造の過程で時々、アルコールができずに酸っぱくなることがあるという。農作物を発酵させてワインなどの酒を作ることはできても、なぜアルコールができるのかは、当時、まだなぞに包まれていた。近代的な発酵研究は、フランス革命で殺されたラヴォアジェが十八世紀末にすでに始めてはいたが、まだ黎明期れいめいきであった。

  パスツールは化学者であり、生物学や発酵に関しては素人だった。しかし、人々から持ち込まれる地域社会の問題解決のために渾身こんしんの力を振り絞って助けの手を差しのべ、新しい分野の研究に挑戦した。工場から採取したサンプルを顕微鏡で観察し始めたが、実際のところ何を探しているのかさえよくわからない段階からの出発だった。

  発酵液の中で無数の小球体が泳いでいるのが顕微鏡下に観察された。この小球体が丸いとき、アルコール発酵は正常に行われているが、細長くなると乳酸発酵を行うようになり、液は酸っぱくなる。そして、この丸い小球体はアルコール発酵を行う酵母菌、細長い小球体が乳酸発酵を行う乳酸菌であることを遂に突きとめることができたのである。

 生命は生命から

Pasteur_2_3.jpg  当時の科学を指導していた大化学者リービッヒは、「窒素ちっそを含んだ死んだ有機物が発酵素の役割をして発酵が起きる」と固く信じていた。「どんなに細心に調べてみても、天然痘、ペスト、梅毒、しょうこう熱、麻疹はしか、腸チフス、炭疽たんそおよび狂犬病などの伝染性を説明し得るような微生物や他の生物は発見されることはない」と断言して、化学に「生き物を持ち込む」ことに非難を浴びせかけた。パスツールは大御所が築き上げたタブーに大胆にも挑戦し、言うならば時の権威にたて突いたのである。

  こうして、発酵が単なる化学反応か生物の作用かを巡って長い論争が繰り広げられたが、パスツールが正しいことを証明したのは周知の通りである。パスツールは助手もなく設備も整わない屋根裏研究室から、第一回目の「アルコール発酵に関する報告」をしたのである。こうして、ワインが酸っぱくなる原因が判明し、そして、腐敗を起こす乳酸菌が加熱に弱い性質を利用して、低温殺菌法を開発し、見事に地元企業の問題を解決した。この低温殺菌法はパスツール法として今日も使用されている。

  暗い部屋に差し込む光線の中に浮いているちりの中に、数多くの微生物がいるという現在では常識になっていることを、パスツールは時代に先駆けて理解した。その理解に基づいて、有名な白鳥の首フラスコを考案し、見えない微生物でさえいてはこないこと、すなわち生命は生命からという大原則を確立したのである。一八六〇年、三十八歳のとき、それ以前からの研究を含む発酵に関する業績に対して、科学学士院の実験生理学賞を受賞した。化学者が微生物の世界に入り、「発酵現象を研究していると、どうしても『生と死との、うかがい知れない神秘』に関わってしまう」とパスツールは友人に書いている。

 尽きない研究への情熱

Pasteur_2_5.jpg  当時、病院は血やうみの臭いが立ちこめる不潔な場所であり、院内感染、特に手術後の感染による死亡は大変な脅威であった。病院での伝染をどうすれば防げるかに頭を悩ませていたスコットランドのリスターという医師は空気中の細菌説を知って消毒法を確立し、術後感染による死亡率を五十%から遂に三%にまで下げることができたと報告している。

  パスツールは伝染病に対して単に学者として関心があっただけではなく、個人的にはより重大な問題であった。一八五九年に長女が九歳で、一八六六年に二女が十二歳で、いずれも腸チフスで死亡した。また、一八六五年に四女は二歳で病死している。押しも押されもせぬ大学者のパスツールは、死んでいく幼い我が子に、医者も自分自身も手をこまねいて見ているしかないもどかしさに、どんなに悔しく、深い嘆きを体験したことだろう。

  このような痛みに加えて、科学者として未解決の問題や厳しい論争などによる過労もあり、一八六八年、四十五歳の若さで脳卒中に襲われた。左半身が麻痺まひし、動くこともしゃべることもできなくなってしまい、死ぬだろうと思われた。しかし、三か月ほどで徐々に快方に向かい、厳しい半身不随の状態にもかかわらず、研究への情熱は衰えることはなかった。自分で実験器具を取り扱うことはできなくなったが、パスツールのそばに優秀な助手が大勢いて協力し、この中から多くの偉大な科学者が誕生している。

  「この地球上から伝染病を追い払うのは人間の力です。自然発生説は間違っているのだから」という確信に基づいて、パスツールは中風の病人とは思えない迫力で研究に突進した。炭疽たんそ菌や鶏コレラ菌を発見し、それぞれのワクチンを作り出し、家畜に対する予防接種法の確立をするなど、次々と業績を上げた。

 パスツールの墓を守った六十五歳の門衛

Pasteur_2_4.jpg  狂犬病の研究に着手したのは一八八一年、発作で倒れてから十二年半後のことである。狂犬病にかかった犬に少しでもまれると、体がブルブル震えだし、ひきつったようになって窒息死するか、全身が麻痺してしまう。狂犬病にかかると誰でも精神障害を起こすことに気づいたパスツールは、病原菌が中枢ちゅうすう神経に巣くっていると考え、関連臓器からワクチンを作り出して、犬への予防注射法を確立した。しかし、人への注射は全く別問題だった。

  一八八五年、九歳の少年、ジョセフ・メイステルが狂犬に顔と手と体を噛まれてパスツールの所に連れてこられた。ワクチン注射治療をしなければ、死ぬか全身麻痺になるしかない。危険覚悟の初めての人へのワクチン注射治療が行われ、ジョセフは狂犬病にかからず、無事に助けられた。ナチスドイツがパリを占領し、パスツールの墓を暴こうとしたとき、一人の老門衛が自ら命を絶ってまで抵抗して、パスツールの墓を守った。この六十五歳の門衛こそ、狂犬病ワクチン接種で命を救われたジョセフ少年であった。

  パスツールの名が冠せられた研究所ができたのが一八八九年、パスツール六十六歳の時であるが、この研究所はその後優秀な研究者を輩出し、優れた成果を発表している。一八九五年九月、パスツールは七十二歳の生涯を閉じた。