メンデル(前編)

 科学者メンデルを育んだ豊かな土壌

mendel_1.jpg親の形質が子にどのように遺伝するのかを、エンドウを使った実験から明らかになったメンデルの法則を覚えておられるだろうか。彼は神に仕える一介の修道士であったが、同時に科学者としての思索に基づいてこの研究を行なったのである。

 

ブルノに咲いた遺伝学の大輪

「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね そうよ かあさんも ながいのよー」(まどみちお作詞)。かわいく遺伝
mendel_2.jpg語っている童謡である。「瓜の蔓に茄子はならぬ」という諺は、同じく遺伝を言っているように見えて、ある種の偏見が見え隠れしている。「赤い靴」(野口雨情作詞)の女の子は、「今では 青い目に なっちゃって......」と、西洋に行くと眼の色が変わるという、遺伝や生物学の法則をひっくり返す、あり得ない間違いを子どもたちに歌わせている童謡である。 「子はなぜ親に似るのか」という「からくり・遺伝」については、古くから多くの人々の関心を集めていた。現在、遺伝について語るときに真っ先に思い浮かべる人物は、修道士であり科学者であったグレゴール・メンデルである。ウィーンの北方百キロ、中部ヨーロッパのモラビア地方の小さな町ブルノ(現在のチェコ共和国)において、ナポレオン戦争の跡に遺伝学の大輪の花が咲いた。しかし、その美しさに人々が気づくまでに三十五年の歳月が必要であったのは、最先端の科学的発見の価値がしばしば人々に理解されない一例で、あまりにも時代に先駆けていたことが一因だったのだろう。

献身的な母と妹による支援

一八二二年七月、ブルノの比較的豊かな農民の父と代々の園芸家の母の子として生まれたメンデルは、子どものころから生活環境の中で植物学を身につけたようである。彼の非凡な才能を教師が見抜き、上級学校で学ばせたいと両親を説得した。二十キロほど離れた町のピアリスト修道会の学校にメンデルが憧ている様子を見た母は、息子を希望通りの学校に入れて将来に期待したいと思い、夫を説得した。 村から離れた上級学校での勉学は、メンデル家の家計にとって負担が大きすぎたようである。後には食事も充分にできないほどの貧困の中で、家庭教師の資格を得て自活しなければならなかったが、メンデルの優秀さは群を抜いていたので、勉学を継続する道が次々と備えられた。父の死後、さらに学資が乏しくなったが、妹テレージアが嫁入り支度金の費用を提供して兄を支援した。メンデルの才能が磨かれ実を結ぶまでに多くの人々の支援があったが、まず母と妹という二人の女性が献身的に支えたことは特筆すべきことだろう。

遺伝学誕生の道を開いたアンドレ

mendel_3.jpg 当時のモラビア地方では、科学、遺伝学が大勢の人々によって長年にわたり築かれ、蓄積されていた。このように学問的に耕された豊かな土壌に、メンデルの類稀な資質が根を下ろし、芽が出たのだろう。優れた多くの学者や教育者がメンデルの資質を発見し、その才能を重視し、支援・育成したという表に出ない大きな貢献があって、偉大な発見に導かれ、見事に大輪の花が開いたのである。 メンデルを育んだ歴史の一端をひもとくと、メンデルが生まれる二mendel_4.jpg十四年前の一七九八年、モラビア地方に一人のドイツ人、カール・アンドレがやってきた。彼はこの地方で新設の学校の教師となって頭角を現して自然科学の指導者となり、研究会や農業会を組織し、綿羊の改良を指導した。こうして、モラビア地方に科学文明を築き、遺伝学誕生の道を開いた。アンドレが火をつけたモラビア文明は細胞核を発見したプルキニェなど多くの科学者を生み、その活躍が、ブルノ修道院の科学研究活動へと繋っていったのである。

当時のブルノ地域では、良質の羊毛と良質のブドウ酒の生産のための品種改良という目的に添った研究が盛んに行われていた。ブルノ修道院長フランツ・ナップは農作物の品種改良に熱心で、一八四〇年にブルノで開催された全ドイツ農業研究会議で議長を務めた。そして、「品種改良のためには、交雑技術についての理論、生物の遺伝法則を発見する必要がある」と、重要な発言をした。この言葉に触発されて、遺伝学の研究が活発化したのである。

メンデルの植物研究の始まり

「修道士たちは各自の修養に励むとともに、牧職、布教、教育や自然科学研究にも従事すべし」というアウグスチノ修道会の理念のもとに、ブルノ修道院にはそうそうたる文化人、哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などが集まり、修道院長ナップの統率下、ブルノの各学校へ授業に出講したり、学術的な教育や研究が行われたりしていた。 この農業研究会議の三年後、一八四三年、二十一歳のメンデルはブルノ修道院の修道士となった。庭には小さな植物園と温室、ガラス室などがあり、またナップと修道士ターラーが採集した植物の押し葉標本が数多く保存されていた。ターラーの死去により、修道士クラーツェルが植物園の管理者になり、メンデルが優秀で自然科学に適していることを見抜いたナップが植物栽培の仕事を手伝わせた。これがメンデルの植物研究の始まりであり、未来への出発点となった。 今日、私たちが想像する修道院のイメージとはかけ離れた姿に驚く人は多いかもしれない。しかし、十七、八世紀にはもちろんのこと、十九世紀後半のメンデルの時代でさえキリスト教の教会や修道院は、哲学や人文科学のみならず、自然科学の領域においても指導的な役割を果たしていたのである。 偉大な科学的発見の正当な評価が遅れた遠因の一つは、先に挙げた原因以外に、メンデルが「科学者」というお墨付きをもらっていない、一介の修道士であったことも挙げられるかもしれない。メンデルを科学者というと、「修道士でしょう」と反論されることも少なくない。考えなしにエンドウを植えて楽しんでいたら、遺伝の法則が湧き出してきたかのごとき錯覚が無意識下に働くのは、白衣を着ていないメンデルの写真のためかもしれないと、苦笑してしまう。現在でも、この業績の偉大さを認めながらも、エンドウでなくてもよかっただろうとか、「偶然」の積み重ねだったとか、その他、的はずれな「ケチをつける」人々がいるようである。メンデルが科学的思索に基づいて研究したことを知らないで、修道士が科学者であるなどあり得ないというような愚かな錯覚を補強しようとするのである。

慕われ尊敬された教師、メンデル

mendel_5.jpgメンデルはモラビア南部のギムナジウム(中等教育機関)や、後には州立専門学校で教育に携わり、一八六八年に修道院長に就くまで、代用教員としてその役割を誠実に務めた。正規の教員資格試験に二度受験したが合格しなかったので、「教育者として失格であり、科学の分野では有能ではなかった」という論調で書かれていることがあるが、実は逆だった。生徒から慕われ、同僚からも尊敬された優れた教師であった。植物の胚の形成は花粉管だけからであるとする教授陣に対して、雌雄が合体して胚ができるという異なる論理をメンデルが口頭試問で述べ、教授陣を超えてしまったために不合格になったようである。学位を取得する道もあったが、メンデルは学位に興味を示さなかったという。 この一見不幸な出来事は、メンデルに大きな幸いをもたらすこととなった。もし合格して正教員になっていたら、重要な遺伝学の法則を発見することはなかっただろう。一八五一年、ナップは試験に落ちた二十九歳のメンデルを、ウィーン大学に聴講生として入学させたのである。メンデルは物理学を専攻し、指導教官は「ドップラー効果」*で有名なドップラーだった。さらに、神学、ギリシャ語、ラテン語、高等物理数学、化学、動物学、植物学など基礎科学的知識、思考方法を幅広く修得し、法則発見の着想を得たのであった。 (続く)


*近づいてくる列車の警笛は音色が高く、遠ざかるときは音色が低くなるという根本原理。

 



(ご案内)この投稿内容は、以前、「サインズ」(福音社)に連載したものです。