メンデル(後編)

修道院の庭で咲いた遺伝学の大輪

 中背でやや小太り。黒くて長い上衣に短ズボン、長靴を履き、シルクハットをかぶり、金縁の眼鏡をかけ、金髪で灰色の眼をした特徴のない男性が、偉大な科学者メンデルである。

遺伝の法則性への着想

mendel_2_1.jpg ウィーン大学で物理学と化学を学んだメンデルは、原子の組み合わせによって各種の物質が生ずる現象を生物界に想定し、粒子的な要素(遺伝子)の組み合わせに従い、対応する数学的な法則によって生物体の各種の形質が発現すると着想した。

 論文の冒頭「同じ雑種型がいつも繰り返し現れるときの顕著な法則性に刺激されて、雑種が後々の子孫でどのように展開するかを追跡するためにさらに実験を......。雑種の型の相互の比の値を確定できるほど、広い範囲までを含める研究に取りかかることは、かなりの勇気を必要とする」と、遺伝の法則性に気づいて実験を企画した経緯をメンデルは述べている。そしてその法則性が成り立つためには、生物は遺伝をつかさどる実体として要素を対として持っており、子は両親から片方ずつ受け継ぐという仮説を持っていた。

 修道院長ナップはメンデルを指導するにあたり、「何が、いかに遺伝するか?」という問題を投げかけ、メンデルはその問題点をよく理解していたのである。

実験材料の選定に丸二年

mendel_2_2.jpg この発想を実験によって検証するために、修道院の庭(長さ35メートル、幅7メートル)に五千株にも及ぶ植物を植えて交雑実験を開始した。実験開始前にメンデルは実験に適した植物の条件を設定しているが、論文の「実験に用いる植物の選択」の章において、「すべての実験の価値と有効性はそのために使われた材料が適切であるかどうか、またそれを目的にかなったやり方で使うかどうかに左右される」と書いて、エンドウを実験植物として選択した科学的根拠を論じている。

 豆科植物のエンドウはさまざまな形質や品種改良の長い歴史があり、人工授粉が行いやすいことにメンデルは注目した。交配実験に先立って、種苗店から入手したエンドウマメ34品種の人工授粉を繰り返して試験栽培に実に2年間費やし、最終的に純系22品種を選び出した。この選別作業が遺伝法則の発見に不可欠だったのである。メンデル以前にも交配実験をした人はいたが、純系を用いなかったために法則性を見いだすことができなかった。

 また、エンドウの「豆の形」「豆の色」「さやの形」「さやの色」「茎の長さ」「種皮の色(花の色)」「花のつき方」の七対の遺伝形質が、七本の染色体にそれぞれ分かれて存在していたことが法則発見の重要な要因となった。

メンデルの研究発表

mendel_2_3.jpg メンデルは1856年に実験を開始した。雑種の6代目まで8年間追跡調査し、正確に実験データを記録して、1863年に一段落して実験を終えた。その後、当時の生物学という概念の枠を超えて、データを統計学的に整理・算出を行なった。このようにして、親の形質は遺伝子によって規則性を持ち、子や孫の世代に伝わるという三つの遺伝の法則──「分離の法則」「優劣の法則」「独立の法則」──が発見された。

 実験終了二年後の1865年、メンデルは二回にわたって口頭で研究発表を行なった。講演会には約40人が集まったが、二通りの正反対の評価が報告されている。非常に好評で多数の質問があったという報告がある一方、「講演はほとんど理解されず、何の質問も討論もなかった」とイルチス著『メンデルの生涯』には書かれている。 

 その翌年、ブルノ自然研究会誌第四号に44ページにわたって論文を掲載し、500部発行され、各地の大学、図書館、また個人宛に贈呈された。この「雑種植物の研究」という論文は日本語に翻訳されて出版されており、「序言」「実験に用いる植物の選択」「実験の分割と順序」「雑種の形態」「雑種の第一代目」「雑種の第二代目」「その後の雑種世代」「多数の対立形質が組み合わされている雑種の子孫」「雑種の生殖細胞」「他の植物の雑種についての実験」「結語」という構成になっている。

 メンデルはエンドウ以外に、その他の植物やミツバチでも遺伝研究を行なっている。また、生物学以外に気象観測と研究も行なっており、生涯に発表した論文全13篇のうち、気象に関するものが九篇を占めていることから、気象研究に強い関心を寄せていたことがわかる。

メンデルの最期

mendel_2_4.jpg 1876年、ナップの死後、選挙によってメンデルが修道院長に選出されたために、遺伝学の研究に集中することができなくなった。メンデル自身は遺伝学研究をさらに継続できると期待していたが、多忙な修道院長の職がそれを許さなかった。その上、ウィーン政府が修道院に対して不合理な重税を課したので抗議したが、他の修道院が次々と挫折する中で、メンデルだけが体力・気力を捧げて抗議を続けた。しかし、報いられぬまま病に倒れ、1884年、62歳で死去した。その2年後、政府は不合理な重税を撤回し、余分に徴収した税をブルノ修道院に返済した。

 メンデルの死因は心臓肥大と腎臓炎であった。ある伝承によると、「臨終が近づいたとき、終油の秘蹟の儀式を行なった。一同が祈りを捧げ、メンデルが主の祈りを祈り、賛美し、そして召された」と伝えられている。死亡公告書は、メンデル自身によってあらかじめチェコ語で書かれていた文に基づいて書かれた。「1月6日朝1時半、長らく重篤の病苦の後、最後の聖餐を授かり、神の意志に従って遂にこの世より主に召された。......故人の遺骸はブリュン中央墓地に永遠の憩いに就く」

 メンデルの葬儀には、カトリック教徒の他に、プロテスタント、ユダヤ教の信者、メンデルから恩恵を受けた多くの貧民が集まり、2キロ南の墓地へ向けて長い葬列が続いたことから、修道院長としてメンデルがいかに人々に献身的に尽くし、慕われていたかが伺われる。

遺伝学の基礎を築いたメンデル

mendel_2_5.jpg メンデルの研究は、発表後35年、死後16年経った1900年まで人々に認められなかったが、メンデル自身は科学者として確信を持っていた。最後の公務である修道士バシーナの着衣式の終了後、「・・・・・美しく良き時を過ごすことができたので、感謝せねばならない。私は自然の研究を心ゆくまでやり遂げることができた。世界がこの研究成果を認める日が来るのは、そんなに先ではあるまい」と、メンデルは回想している。

 そして、1900年、この優れた科学的発見は、ド・フリース、コレンス、チェルマクの三名による後付発見をされて、世に知られたのである。メンデルの要素はDNA(デオキシリボ核酸)であることが判明し、その二重螺旋構造がアメリカのワトソンとイギリスのクリックによって1953年に明らかにされた。こうして、遺伝学の基礎は20世紀の今もメンデルが確信したとおり揺るがず、生物学の基本法則、メンデルの法則として生きている。(完)



(ご案内)この投稿内容は、以前、「サインズ」(福音社)に連載したものです。