レントゲン

近代科学、近代医学の道を拓いたレントゲン

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 物理学の成績は「不可」

  レントゲンはX線発見という使命を持ってこの世に生を授けられ、紆余曲折うよきょくせつを経て、ついにその使命を全うした。巨万の富を得る最短距離にありながら、「発見は全人類のものだから、私一個人の利益とすべきではない」と、莫大ばくだいな利権が得られる特許取得などを頑固に拒否した。財を築かず清貧の道を選び、貴族の称号も辞退し、第一次世界大戦後のドイツの天文学的インフレに翻弄ほんろうされて、一九二三年に貧困の内に七七歳で神のもとへ旅立った。

  レントゲンは十七歳の時、家を離れて工芸学校に通ったが、代数学、幾何学、化学は非常に優秀であった一方、驚いたことに物理学の成績は「不可」の記録が残っている。総じて学業成績は良かったが、天才肌の人物に多い注意欠陥多動性障害とみなされる暴れ者で素行は思わしくなく、先生たちの覚えも悪かった。そのような状況下で「教師似顔絵事件」が起こった。レントゲンはその場にいただけであったが、犯人をかばって口を割らなかったために犯人と見なされ、退学処分になってしまった。自分が犠牲になっても友だちをかばい通したことに、温かい理解を示す母親の大きな愛の翼のもとで育てられたことは救いであった。

  その後、大学入学資格試験を受けたが不合格となり、以後、独学したり大学の聴講生になったりして傷心の二年間を過ごした。この辛い出来事は、結果的に人類の将来を拓く発見につながる道を拓いたと思われ、神は人生の見事なかじりをされる方であることが如実にょじつに示された事件であった。

 X線の発見

  陰極線は電子の流れだが、金属を透過することから、当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていた。ヘルツやレナルトらは真空放電や陰極線の研究を先んじて進めていたが、レントゲンは陰極線の実験にあたり、レナルトに依頼して確実に動作するレナルト管を譲り受け、そして全く新しい放射線であるX線(レントゲン線)を発見したのである。

  この未知の放射線は電磁波であり、可視光線や紫外線が通ることのできない黒い厚紙や木材などを通ることが明らかになった。この電磁波は陰極線と異なり、磁気を受けても曲がらないことから、レントゲンは新しい放射線であることを確信し、この「未知なる光」を、数学の未知数をあらわす文字「X」を使い、X線と名付けた。このX線の恐るべき透過力、及びそれを遮蔽しゃへいできる物質の種類、金属、特に鉛を明らかにした。

 急速に広まったX線の研究成果

Rontgen_3.jpg レントゲンは当時の優れた科学者あてに論文の別刷りに添えて、証拠写真として、夫人の手、木箱の中の分銅などのX線写真を送った。それに対してお礼と画期的な発見を賞賛する手紙が数多く送られてきた。当時のドイツ物理学会の会長、エミール・ワールブルグ* の手紙には、ベルリン物理学会の五十回記念大会で、会場にX線写真を飾ったと書かれていた。

 X線写真という直観的にも非常にわかりやすい結果を伴っており、またレントゲンがすでに物理学の世界で一定の名声を得ていたので、発表は急速に受け入れられた。一八九六年一月には、ネイチャー誌をはじめ幾つもの科学誌に論文が掲載され、またドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の前でX線写真撮影の実演をした。

 また、一月二三日の午後、ヴィルツベルグ物理医学総会で公開講演会を行い、著名な解剖学者ケリカー教授の手を使ってX線の写真撮影を行った。この未知の線を発見者の名前にちなんで「レントゲン線」と呼ぶことが提唱され、全員が大喝采かっさいして賛同した。しかし、レントゲン自身は、自然現象に個人の名前を付けることは好ましくないという見解に終始し、「X線」と呼ぶことを固守した。X線は医学的な領域で有効に応用できることをレントゲンは確信していたが、外科医シェーンボルンはそれに強く反論した。

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 動かしがたい業績

 Rontgen_4.jpg この発見の業績により、一九〇一年、第一回ノーベル物理学賞を受賞したが、それ以外にも数々の賞が与えられた。レントゲンは栄誉に包まれて、学者としても、人としても幸せになったと想像しても不思議はないが、実は煩わしい出来事が押し寄せてきて平安が乱されることになった。X線発見後、あれは偶然に発見したものだとか、それはすでに自分が見つけていたとか主張する人々が現れた。特に陰極線を研究していたレナルトは、レントゲンが単独でノーベル賞を受賞した時以後、X線を先に発見したのは自分であると強く主張し続けた。

  しかし、すべての発見はどんな変化も見逃さない観察力とひらめき、そしてその事実をつかみ一気に追求していった彼の集中力によるものであり、これほど見事に実行できる科学者が他にはいなかったということである。パスツールが言っているように、「偶然は、準備のできている人には必然として留まる」のである。

 レントゲンを支えた母と妻

Rontgen_5.jpg  X線の発見をいろいろと取りざたされた以外にも、さまざまな誹謗ひぼう、中傷、やっかみに便乗した偏見が飛び交った。神を冒瀆ぼうとくするものであるとか、全人類を死の恐怖に陥れるものであるといった非難まであった。青年時代の挫折から人格的には偏狭なところや気難しいところがあったことに輪を掛けて、次第に人間嫌いに追いやられた。敬虔けいけんなクリスチャンで非常に純粋であっただけに、特別親しい人以外には会わなくなっていった。あるジャーナリストに、「新聞は科学的な事柄を説明するには適切なメディアではなく、掲載された記事には誤謬ごびゅうと不正確さが入り交じっている」と不平を述べている。

  第一次世界大戦において、X線が戦傷者の診断に役立ち、多くの人命が救われた。戦争の初期には憎しみから各学会の名誉会員簿からレントゲンの名前が抹消されたが、次第に敵国人でも人類の幸福に寄与した発見は偉大であり、称えられるべきであるという風潮に変わっていった。

  卓越した科学者レントゲンのそばには、他の偉大な科学者同様、信仰深く思慮深い母と、愛を持って支えた賢い妻が寄り添っていたので、偉大な発見があり得たのであった。

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*ノーベル生理学・医学賞を受賞した有名なオットー・ワールブルグの父