2.上の水

 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。(創世記1章6~8節)

【Ⅰ】 ポッカリ浮かんでいた水球

ue_no_mizu_1.jpg 創造の最初の最初、「形がなく、何もなかった」(創世記1章2節)状態の初めの地球がどのようなものであったか、本当のことは私たちには分からない。全体が水の塊であったのかも知れないし、あるいは真ん中に地殻があったのかも知れない。イラストには一応薄茶色で表現してみたが、少なくとも宇宙から見れば、ただの水の塊で内側は見えなかったのかも知れない。すなわち、丸いボールのような水の塊が宇宙にポッカリと浮かんでいた・・・・想像しにくいが、しかし、まとまって浮かんでいたのであろうから、中心に何らかの求心力が働いていたのだろう。

 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。(ヨブ記38章4~6節)

【Ⅱ】地球は大磁石 

 最初の最初がどうであったとしても、第一日目の終わる前、むしろ第一日目の初めに、創造された球形の地球はすでに大磁石としての実態を備えた地殻を持っていたと考えられる。そして、創造された光は一方向から地球を照らし、そして、地球の自転が始まっていたので、「夕があり、朝があった。第一日」、と一日目の区切りが付けられたと考えられる。

ue_no_mizu_2.jpg 子どもの時に理科の実験で棒磁石の周りに砂鉄を撒いて磁力線を確認したことのある人もいるだろう。磁力線は目に見えないが、このように鉄粉によって見ることが出来るのである。地球は大きな磁石であり、地球の周りには強力な地磁気・磁力線が走っており、地球の周りを取り巻いているのである。これを地球の周りにあたかも鉄粉を撒いた如くに、コンピューター・シミュレーションによってイラストとして示している。青い線は中心に向かう磁力線を、黄色い線は中心から下方へ向かっている磁力線を示している。地球の回転軸は垂直方向で、真ん中に線が密集している所に地球の核がある。これは地球自身の磁力線を示しており、よく目にする地球の周りの磁力線の図は、太陽風の影響を受けている現状に近い磁場を描いたものであるが、一日目には太陽はまだ創造されていないので地球磁石によって生じている磁力線のみを示しているこのような状態であったと考えられる。太陽風の影響をつけ加えた図は、四日目に太陽が創造された後の項に示す。

【Ⅲ】大空の間に水を分けられた

ue_no_mizu_3.jpg 第二日目に、創造主は大空を造って、地表を覆っていた水を、地上に留まる液体の水(下の水)と、地球の遙か上、大空の上にも水を分けて上げられた(上の水)。下の水は地球を覆う水、すなわち三日目になって陸と水(海)に分けられることになる地上の水である。この段階では層の厚さは不明であるが、地球全体を水が覆っていたと考えられる。そして各種の気体で満たされた大空を造られた。単純化してイラストにすると、下の水(水色で示す)で覆われた真ん中に位置する地球(濃い色)と、大空・大気(白色)と、そしてその上に上げられた上の水(淡い紫色で示す)で地球は取り囲まれていたように考えられる。

 こうして出来た「上の水」とはどんなものだろう? 現在、諸説があり一つの説にまとまっておらず、輪状の氷の粒子、あるいは氷の結晶からなる系であったとか、液体の水からなる殻、あるいは厚い雲の堤のようなものであったと考えている人もいる。しかし、上の水は大気圏の上にあったと聖書が述べているので、現在空中に浮かんでいる水滴からなる雲をも含め、氷や液体の水と同様のものとは考えにくい。

 かつて、とてつもなく厚い水蒸気の層―天蓋説―であると考えられたことがあったが、そのような「厚い」水蒸気の層であるという考え方は否定された。しかし、極めて厚い水蒸気の層と考えたことが問題であったので、薄い天蓋であるという考えは否定されてはいない。ちなみに湯気は水蒸気であると誤解されていることがあるのだが、湯気は水蒸気が冷たい空気に触れて出来る液体である。水蒸気は気体の水であり、無色透明、すなわち目には見えない気体であり、普通の空気中にもごく微量であるが含まれている。

【Ⅳ】 上の水の意義

 上の水の意義、役割などに関しては、専門的な考察の項で改めて考えるが、しかし、科学的に論理の矛盾しない薄い水蒸気層である可能性が高いと筆者は考えている。創造主は地表を覆っていた水の真ん中に「大気圏」を置き、水にエネルギーを与えて気体に変え、大気の上に上げられたのだと考えられる。

第一に、四日目に創造される天体が「地上を照らし」、「しるしのため、季節のため、日のため、年のため」(創世記1章14-15節)に役立つためには、地球の「上の水」の層を可視光線が透過出来なければならない。雲や霧のような水滴、あるいは氷の粒子などであると透過出来ないことは日常茶飯に経験していることであり、曇りの日には太陽光は遮られるし、夜の月や星も見えない。気体の水蒸気は完全に透明であり、太陽光も、月や星の光も透過させる。

 第二に、空中に浮かんだ状態の水蒸気の天蓋は地上に沈降することもなく安定しており、生命の生息出来る最適な地球環境を整えるために重要な役割を果たす。創造された時点で、宇宙線や太陽光線がどのようであったかは分からないが、少なくともノアの洪水の後には、地球には様々な有害光線が襲いかかるようになっていただろう。太陽光線のうち生命体にとって有害な紫外線、エックス線、ガンマ線や、その他の破壊的エネルギーは、磁場のみでは地球に届くのを阻止し得ないが、この水蒸気の天蓋がそのために大きな役割を果たしたことだろう。これらの放射線は、遺伝子に突然変異を引き起こす原因となり、生物の各個体、ひいては種の生存能力を弱めることがよく知られている。したがって、この水蒸気の天蓋は、人や動物の健康と長寿を維持するために役立ったと考えられる。

 第三に水蒸気は太陽光線を透過させ、地球表面からの反射光を放出してしまわず、地球表面全体に拡散させるので、地上のどこででも一定の温かい温度を維持出来た、つまり地球全体が温室状態に保たれていたと思われる。そして、毎日、夜と昼が巡ってきて、地上は温かい温度が保たれていた状態下、水分は霧や露のような局地的な蒸発と濃縮があって、湿度もまた一定に維持されたと思われる。地上至る所に温かい温度と快適な湿度が保たれていたので、不毛の砂漠も万年氷河もなく、世界中青々とした植物が繁茂できたことだろう。温帯あるいは亜熱帯地域の植物の化石が極地から発見されたり、氷河の下からマンモスの化石が発見されたりしていることからも裏付けられる。余談であるが、地球は創造された時から南極、北極は氷で覆われ、砂漠が存在した、つまり今の地球とあまり変わらない状態であったと信じているクリスチャンが大勢いるようであるが、それはあり得ないと思う。また、温度が一定だったので、大きな空気団の動きである暴風などはなかっただろう。このように地球環境を極めて温和な状態に保つために、この水蒸気層が大きな役割を果たしたと考えられる。

 天地万物の創造の一部始終は、ヨブ記38章において、主がヨブをさとされたように人間には誰にも判らない。主は限りない愛を持って、ヨブに語りかけておられるのである。

 「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。あなたの声を雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか。あなたはいなずまを向こうに行かせ、「私たちはここです」とあなたに言わせることができるか。だれが心のうちに知恵を置いたか。だれが心の奥に悟りを与えたか。」(ヨブ記38章16節、18節、33~36節)

 

「上の水」の概要は、ここまでで締めくくる。多少専門的なことに関心のある方は、以下の項目を読み進められたい。また、光について興味のある方は、第一日:「夕と朝によって刻まれた一日」を参照されたい。

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専門的な考察


【Ⅰ】 水 

ue_no_mizu_4.jpg 「上の水」とはどういうものかについてさらに論を進める前に、まず「水」とは何かについて説明を加えることにする。普通の会話で人が水と言った場合、飲み水、水道水、そして海や川や雨の水のように液体の水を思い浮かべる。そして、この場合、特に女性は、丁寧語をつけ加えて「お水」という人も少なくない。この水の温度が下がると固体の水になり、「氷」という別の言葉で呼ぶ。逆に温度が上がって蒸発すると気体の水、水蒸気になる。誤解されやすいのがこの水蒸気である。水を沸騰させると蒸発してやかんの口から湯気が出て笛を吹いて知らせるので、湯気を水蒸気と思っている人は意外に多い。水は沸騰して気体の水蒸気になり、やかんの口から外へ出て外の冷たい空気に触れると、その一部は瞬時にして液体の湯気になる。湯気は液体の水だから見えるのである。水蒸気、すなわち気体の水は見えるものではない。目の前の見えない空気にも、一定量(0.001%-5%, 容量)の水蒸気は含まれているのである。                   

 一方、科学者が「水」と言った場合は、すぐに液体か、気体か、固体かという区別を思い浮かべることもまれではない。大抵は文脈から、液体か気体か固体かは判別できているが、しかし、飲み水か、海の水か川の水か等という概念は通常入っては来ないというか、どの類いの水かということまで織り込み済みで語ることが多い。すなわち、水とは「水」であり、それは「水素2原子と酸素1原子」が結合した化学物質としての水(H2O)である。固体の氷も気体の水蒸気も、化学的には同じ水なのである。水に丁寧語の「お」を付けることなど、科学を語っている時には起こらないことである。

 液体の水は、様々な物質を溶解することが出来る良溶媒としての存在であり、水蒸気の水は体積が大きくなって、分子密度が低くなった気体である。固体の水、氷は雪の結晶で代表されるように美しい結晶を形成している水であり、化学的には反応性が低くなっていることは、冷凍保存すると食品が長持ちするという日常経験する現象で科学とは縁の無い人々もよく知っている。

 余談であるが、雪の結晶を見られたことがあるだろうか?北国に住んでいる人々は毎年目にしていることであろうが、暖国育ちの筆者は米国ニューハンプシャーに行って初めて見た。ある朝、戸外の駐車場に停めてある車に雪の結晶の模様が描かれているのを発見して、その美しさに暫く見とれてしまった。筆者の車はややスポーツタイプの真っ赤なマーヴェリックで、様々な模様の雪の結晶がその赤い背景にひときわ映えてキラキラと輝いていた。・・・スポーツタイプの赤い車に乗っていたなんて、今の筆者を知る人には想像できないかも知れない・・・・筆者も若かったのである。

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【Ⅱ】 天蓋

 「大空の上にある水」は大気の外側の上にある厚い水蒸気の層「天蓋」で、地球全体をすっぽりと包み込んでいると考える「天蓋説」が、かなりの期間、支持されていた。この厚い水蒸気の層が、有害な宇宙線など全てを遮断したので、地上の生き物を護ったと考えたのである。また、地球全体に温暖な気候が保たれた結果、今では考えられない長寿を与えられたと説明していた。

ue_no_mizu_6.jpg そして、ノアの洪水において四十日間雨が降り続け、高い山のさらに上まで地球全体が水で覆われるための莫大な水は(不思議なことに)地球に存在しないと思われていたので、水の源を探さなければならなかった。 

 ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。(創世記7章11節、新共同訳) そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。(創世記7章12節、新改訳)

 40日40夜降り続けた雨は全て「上の水」であったと、すなわち洪水の雨の全量をこの「上の水」で説明しようとすると、計算上、天蓋は想像を絶するほどの膨大な厚さでなければならないことになってしまった。すなわち、液体の水が莫大なエネルギーを吸収して気体の水になるが、気体になると体積は増大する。膨張した大量の水蒸気が厚い層になって地球を包み込んだとしたら、地上は耐えられない高気圧となり、また、地上の温度は生物の生存を脅かす高温になったであろうと考えられ、全面的な見直しを迫られたのである。そのために、天蓋説全体が一挙に破綻を来したように思われ、事実天蓋説を完全に否定した人々もいる。

ue_no_mizu_7.jpg ノアの洪水の時に四十日間降り続けた雨の全量を、この天蓋からの水だけだと決めてかかったのは、一つには水の源を天蓋だけであると考えたこと、そして水の循環に考慮を払わなかったことによるだろう。しかし、この「大いなる深淵の水の源」は、地の底の深淵、すなわち地下に蓄えられていた水と考えられるのである。この地下に貯蔵されていた水がことごとく裂けて地上を水で覆い尽くしたのである。今日、火山噴火で出てくるものの70%以上が水、しばしば水蒸気であることから分かるように、今でも地下に蓄えられている水の量は莫大である。恐らくは、洪水の後、水の一部は洪水によって出来た深い海溝に収まったのであろうが、もう一度改めて地下にも貯蔵されることになったと考えられる。

ue_no_mizu_7_2.jpg また、この「上の水」も全て破れて、地上に降り注がれたのであろうが、一方で、ここで使われたヘブル語の「天の窓、天の水門」とは、主の超自然的な介入によって天の水門を開かれたときに使われる用法であると考えられており(第二列王記7章2節、19節;マラキ書3章10節)、通常の降水ではなく、主の御手によって天の水門が開かれた結果、全世界で四十昼夜の間、継続的で激しい土砂降りの豪雨となったのであろう。

 したがって創造の時に主が備えられた「上の水」は、主の視点で適正な量であったはずであり、地球を、特に地上のいのち、そして大切な人を護るために必要だったからこそ、水の一部を水蒸気として上に上げられたのだと考えられる。かつて考えられたような膨大な天蓋ではなくて、それとは比較にならない適切な厚さの天蓋であったと考えるなら、科学的にも問題は無い。つけ加えるならば、この上の水が洪水の時に全て地上に降り注いでしまい、地球を護る大切な「天蓋・保護膜」の役割を果たしていた上の水がなくなってしまった結果、急激に人の寿命が短くなったという事実がある。実際、ノアの洪水以前の人類は驚異的な長寿(ノアは950歳、祖父のメトシェラは969歳)を祝福されていたが、洪水後、急激に寿命は短くなった。このことは、ノアの洪水の項で詳細に検討する。

【Ⅲ】 ノアの洪水以前に雨は降らなかった? 虹は無かった?

 「上の水」の話の時に、またノアの洪水の話の時にしばしば論じられるのが、洪水の時以前には雨が降らなかったと語られることである。その根拠にされているのが、次の御言葉である。

 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。(創世記2章5節)
 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。(2章6節)

 「地上に雨を降らせず」という言葉のすぐ後に、「土地を耕す人もいなかったから」と書かれていることを無視して6節にジャンプして理解し、創造された時の水の循環の中に雨が入り込む余地がないと解釈されているのである。素直に読めば、5節は創造の二日目までの話である。1本の野の灌木もなかったのは、二日目までであり、三日目には陸と海が分けられ、陸には植物が創造されたのである。植物がなく、雨も降らなかったが、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していたのは二日目までである。何故、2章5節、6節が、洪水までの長い期間を意味すると考えられたのか、全く理解に苦しむ。その後、植物が創造され、五日目に空の動物、水に住む動物、六日目には陸の動物が創造される。そして、7節はその後の人の創造が描写されている。何故このように、文章を分解して解釈するのか、全く訳が分からない。

 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(2章7節)

 海が分けられ、またエデンの園には川があった(創世記2章10~14節、虹の話の所に後述)環境下で、雨が降らなかったと考えることには、余りにも無理があるのである。2章6節の水の循環は、どこまでも二日目までの話である。さらに、この2章5節を読み違えておいて、洪水の後の虹の話に物語を続けて。雨が降らなかったから虹は、洪水の後にしか見えなかったのだと解釈をする。ノアとの新しい契約「虹の契約」を際立たせるために、虹はこの時に初めて主が創られたという思い込みがあるのだろうか。しかし、契約の虹が、地上初めての虹であるとは書かれていないし、実際、初めての虹であるはずは無いことを後ろに説明する。

ue_no_mizu_9.jpg わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」(創世記9章13、14,16,17節)

 洪水以前には、確かに地球は、陸地一つ、海一つであった。ノア一家がこの地上のどこに住んでいたか、海の近くにいたのか、海というものを全く知らなかったかは分からない。また、ノアの家族だけではなく、当時地上に生きていた多くの人々が海を見たかどうかは書かれていないから不明である。しかし、壮大な人類史の舞台の登場人物について、私たちは聖書に特別に記載されている人々だけを頭の中に思い描いてしまう傾向がある。しかし、ノアの時代までには、恐らくは地の続く所には隈無く人類も、動物たちも広がっていただろうと考えて良いだろう。すなわち、海の近くに生きていた人々が大勢いただろうと考えても良いだろう。その様々な情報は、ノアたちの所にも届いていただろう。また、ノアの一家が海の近くに住んでいたかも知れないのである。

 ちなみに、ノアたちがあの箱船を建設できた技術力は抜群である。このことから考えても、当時の人々がどのような科学的な知識、地球や宇宙に関する知識、様々な技術力、そしてそれを相互に情報伝達する力、手段を持っていたか、計り知れないものがあるだろう。

 ついでのことに道草をすると、私たちはいつの間にか、エデンの園は洪水の後に箱船が漂着したアララテ山の近く、中近東のあの辺、みたいな錯覚に囚われてはいないだろうか? 創られた地球の姿はノアの洪水によって無残にも完全に失われたことを忘れてはならない。ノアたちがアララテ山に漂着後見つけた新しい川に、エデンの園にあった川の名前を懐かしがって付けただけの話である。
しかも、アダムたちはヘブル語を喋っていたと決めてかかっているのではないだろうか? それに加えて、将来私たちが天国で使う言語はヘブル語であるとか、だから今からヘブル語の勉強をしておいた方が良いとか・・・・冗談にしても度が過ぎると思うのである。

ue_no_mizu_10.jpg さて、仮にノア一家が海から遠く離れた地域に住んでいたとしても、彼らの寿命の長さを考えると・・・洪水預言を受け、箱船建設を命じられた時にノアは五百歳前後、洪水が来た時には六百歳であった(創世記6章7節、14節、7章6節、11節)・・・地上に海が存在していることを知っており、見たかも知れない可能性は高いだろう。海では、波が立って水しぶきが上がると、虹が見られることはあっただろう。すなわち、虹は高い空にだけ観測される訳では無い。写真のように、身近に観測されるのであり、洪水の後に初めて虹が見られたなどということはないだろう。   

 また、洪水以前には、多分湖や大きな池はなかっただろうと思われるが、川は創造の最初に主がお造りになったのである。

 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。(創世記2章10,11節、13,14節、新共同訳)

ue_no_mizu_11.jpg これらの川は土地の高低にしたがって、ある場所では大小様々な滝となって流れ落ちていたかも知れない、そうすれば、当然のことながら写真のように水しぶきが上がって、時々は美しい虹をノアたちに見せてくれたことであろう。

【Ⅳ】 結語       

 天地創造の過程で地上の人を護るために置かれた天の上の水は、ノアの洪水の裁きの時に、すべて地上に降り注いで無くなってしまった。言うなら天の上に置かれた保護膜がなくなってしまったのである。しかし、来るべき時に主が創造される新しい地球で、元の状態に回復されることを期待しよう(詩篇148篇4~6節)